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2018年5月18日 (金)

復活する(マルコ16章)

聖書箇所は、マルコの福音書第16章1節から8節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第28章1節から8節/ルカの福音書第24章1節から12節です。

●1節.安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。

イエスは金曜日に葬られましたが、金曜日の日没から始まる翌日の土曜日は安息日です。

その安息日は土曜日の日没とともに終わりますので、安息日が終わったので三人の女性がイエスの遺体に塗るための油と香料を買いに出かけました。

そして、翌日の日曜日早朝に前夜に買い求めておいた油と香料を持ってイエスの墓に行きます。

その三人の女性は、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」でした。

この三人は、イエスの十字架を遠くから見つめていた婦人たち(マルコ15・40)であり、マグダラのマリア、ヤコブ(ヨセの母と同一人・・マタイ15・40)の母マリアは、イエスの埋葬を見とどけています(マルコ15・47)。

女性たちの名が上げられるときは、いつもマグダラのマリアが筆頭にきていますが、これは、復活されたイエスが最初にマグダラのマリアに現れたことからそのようになったのでしょう。

ここの三人の女性は、イエスがガリラヤにおられるときから、イエスにつき従った女たちのなかでも中心的な存在であったのでしょう。

イエスや弟子たちの食事とか身の回りの世話もしていたのでしょう。

現在でも同じですが、教会は女性の働きに負うところが大きいと思います。

●2節.そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出ると(日の出前か)すぐ墓に行った。

「週の初めの日」ですから、日曜日の朝早く三人の女性たちは油と香料をイエスの体に塗るために墓に行きました。

●3節.彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

当時の墓は、崖になっているところに横穴が掘られていたということです。

その穴の入り口に大きな石を転がして閉じていたということです。

石が大きくてとても重く、大人の男性が転がそうとしてもびくともしないものでした。

イエスの遺体に香料を塗るにしても、墓の入り口を塞いでいる石を取り除かなければなりません。

女性たちには、自分たちには墓の入り口を塞いでいる大きな石をころがして除ける力がないのはよく知っているはずですが、何の成算もないままただただイエスを慕うあまり墓にやってきたのでしょうか。

入口の石を除けることは番兵にでも依頼するつもりであったのかもしれません。

何がともあれ、早くイエスに会いたい。少しでも早く油と香料をイエスの体に塗らなければと気がせいていたのでしょう。

●4節.ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。

三人の女性たちは「朝ごく早く」(2節)ですから、日が昇る前のまだあたりが暗い時刻に墓に向かったのでしょう。
イエスのことが気になり、昨夜はよく寝ていないのかもしれません。

墓を塞ぐ大きな石のことも心配したでしょうが、とりあえず道を急いだのでしょう。

墓の近くまできて、ようやく夜が明けてあたりが見えるようになると、意外なことに、墓を塞いでいた大きな石がすでにころがして横に除けてあるのが見えました。

彼女たちの心配は徒労でした。

「目を上げてみると、」という動詞は細かい描写ですが、墓が高いところにあるということではなく、大きなものを見るときにそのように表現することもありますので、そうではないかと思うのです。

●5節.墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。

三人の女性が一緒にその中に入ることができたのですから、イエスの遺体を納めた「墓」の中はかなり広かったのでしょう。

ここで、天使の登場です。

「白の衣」は神的な存在の顕現を象徴しているのでしょう(山上の変容における「真っ白の衣」も同じ)。

異次元の霊的存在の顕現に接するとき、人間はまず畏怖の念に打たれます。

女性たちは墓の中で「白い長い衣を着た若者」を見て、恐れおののきます。

未知の存在に対する畏怖はわたしたちが幽霊をみて理屈なく恐れを抱くのと同じです。

この「若者」は、今ここで起こっている出来事の意味を告げ知らせるために天から遣わされた使者でした。

すなわち「天使」の顕現であると理解します。

ちなみに、わたしは見たことはないのですが、現実に天使は存在すると思っています。

●6節.若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

異次元の存在である天使は「驚くことはない」とか「恐れるな」といって呼びかけています。三人の女性の不安を鎮めるためでしょう。

「あの方は復活なさって」という天使の言葉は、十字架につけられたイエスの復活を告知する言葉です。

イエス・キリストの福音の全ては、この復活という言葉、この事実の上に成り立っています。

創造主である神との交流が途絶えている限り人は皆いずれ死んでいきます。

それを聖書は「罪と死の法則」と呼んでいます。

しかし、神は、イエスによって、この法則に逆らう新しい法則を、人間の中に導入されました。

それは、「いのちの御霊の法則」と呼ばれています。

「いのちの御霊の法則」とは、死んで滅ぶべき人間が、御霊により新たに生きるようになることです。

天使は言います。イエスは「ここにはおられない。御覧なさい、お納めした場所である」。

●7節.さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

弟子たちは、生前イエスから十字架死と復活の告知をされていましたが、そのような奇想天外なことが起こるなど、言葉ではわかっていても信じることはできなかったと思います。

しかし、今、十字架につけられたことと、よみがえられたことは実際の出来事になったのです。

天使の言葉、『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。』も弟子たちは生前にイエスから聞いていました(マルコの福音書第14章28節)。

ガリラヤは、イエスが伝道を開始された最初の地でした。

弟子たちがイエスと寝食を共にし、親しく交わり、教えを受け、その業を見たあの懐かしのガリラヤが、復活されたイエスと出会う最初の場となるのです。

ここで天使は「弟子たちとペトロ」とあり、ペトロだけがとくに名をあげられています。

これはどういう意味があるのでしょうか。

ペトロはこの福音書が著わされた時代にキリスト共同体の中で弟子たちの筆頭として権威を持っていたのでしょう。

そのペトロは、イエスを見捨て、死んでも、あなたを知らないなどとは言いません、と豪語したのに、イエスが捕らえられると見事に三度もイエスを知らないと言いました。

ペトロの名がわざわざ上がっているということは、そのようなペトロでもイエスの十字架死と復活によりその罪が許されたと言っているのかもしれません。

それは、たとえイエスを否むような罪を犯しても、もう一度やりなおすことができるということでしょう。

悔い改め、罪の赦しを得て、新たな人生を、キリストにあって始めることができるのです。

イエスはマタイの福音書でペトロがイエスに兄弟が自分に罪を犯したならば何度赦せばよいのでしょうかという問いに、イエスは「七の七十倍まで赦しなさいと」言われました。

そうです、ほとんど無限に赦しなさいと言われいるのです。

イエスがペトロにそのように求められたのですから、イエス自身は当然わたしたち人間の罪を無限に許されるのではないでしょうか。

これは、ペトロだけでなく、罪と死の中にあるすべての人にとっても、イエスの十字架死と復活は、良い知らせとなります。

イエスを否む罪でも悔い改めれば許されるのですから、わたしたち人間のどのような罪でも悔い改めれば許されると思います。

●8節.婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

この婦人たちの恐れは、未知の存在といいますか、異次元の存在に出会った人間が受ける本能的なものでしょう。

女性たちは恐ろしさのあまり、墓から出て逃げ去ります。

恐ろしさのため震え上がり正気を失って、「誰にも何も言わなかった」と書かれています。

誰にも言わなかった、それは天使に出会ったことは誰にも言わなかったが、墓が空であることは弟子たちに報告したことでしょう。

そのときの弟子たちの反応をルカの福音書第24章11節で「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」と伝えています。

弟子たちは墓が空であると報告を受けたが、墓が空であることもイエスが復活したこともにわかには信じなかったのです。

生前にイエスから告知されていたのにです。

弟子たちが復活を信じたのは、復活されたイエスに直接出会ったからでしょう。

であったといっても、聖霊の働きがなければ復活したイエスを見ることはできないはずですから、そのときに、聖霊が働かれたから、復活したイエスを見ること(体験すること)ができたのです。

そして、復活を信じることができたのだと思います。

弟子たちの宣教活動はイエスの墓があるエルサレムで、十字架から七週間後の聖霊降臨からペトロの第一声で始まっているのですから、もし墓が空でないならば、すなわちイエスの遺体がそこにあるのであれば、反対者たちはそのイエスの遺体の存在を明らかにするだけで、イエスの復活を嘘だと暴くことができます。

もちろん、復活を根拠とする宣教をも打ち砕くことができたはずです。

反対者たちが、イエスの遺体を弟子たちが夜の間に盗んだという噂を流しましたが(マタイの福音書28章11節から15節)、それは紛れもなく反対者も墓が空であった事実は認めていることになります。

わたしはこの箇所の描写は細かくリアルで、女性たちの反応の描写も真に迫っていますので、やはり、実際にあったことだと思います。

作り話では、このようには書けません。

それに復活されたイエスは多くの弟子に会っています。

復活という出来事は驚くべき出来事ですから、うわさになり詮索されたでしょう。

しかし、聖書ではイエスの復活を疑っている記載は一切ありません。

復活があったことを前提にすべての話が進められているのです。

もちろん、復活を否定したいユダヤ教の人々もイエスの復活を否定はしていないのです。

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