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2018年5月19日 (土)

十字架につけられる(2)(マルコ15章)

十字架につけられる(2)です。

ここでは、イエスが十字架につけられたとき、同時にイエスの両側で十字架につけられた強盗の話しを中心に書いてみたいと思います。

聖書箇所は、マルコの福音書15章27節から32節です。

●27節.また、イエスと一緒に二人の強盗を、1人は右に、もう1人は左に、十字架につけた。

ここで初めて、イエスが他の二人と同時に処刑されたことが語られます。

ローマ人は十字架刑を数人まとめて執行する習慣があったということです。

ここでの二人が「強盗」と呼ばれていますが、彼らはたんなる物盗り強盗の類ではなく、ローマへの武力反抗を試みる熱心党の活動家であったのではないかということです。

したがって、この強盗というのは政治犯ではないかということです。

イエスは彼らと同じくローマへの反逆者として政治犯として処刑されました。

なぜなら、当時ローマが十字架刑に架けたのは、反逆者(政治犯)に限られていたからです。

●28節.こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。

解説によれば、この箇所は、前節で二人が「強盗」とされたので、同時に処刑されるイエスの十字架が聖書の預言の成就であることを強調するために後日に写本の段階で挿入されたのではないかということです。

旧約聖書の引用箇所は、イザヤ書53章12節にあります。

ここに限らず新約聖書には、イエスの言動が預言の成就であることを明らかにするために旧約聖書の預言の言葉をもって表現する個所が多くあります。

●29節から30節.そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し三日で建てる者、十字架からおりてきて自分を救ってみろ。」

十字架刑は見せしめのため人通りの多い街道沿いの処刑場で行われました。

街道を歩いてきてゴルゴタの地にさしかかった者たちは、十字架にかけられているイエスを見て、侮辱の言葉を投げかけます。

「頭を振りながら」という表現には、旧約聖書詩編22編8で「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る」と預言されています。

この通りがかりの者たちの言葉から、イエスが「神殿を打ち壊して三日で建てる」という意味の発言をされたことが、エルサレムの住民の間で評判になっていたことが窺われます。

イエスが言われた三日で建てるというのは、十字架による死から三日後に自分は復活(よみがえる)すると言う意味なのですが、彼らは実際の神殿のことと勘違いしていました。

神殿を三日で建てる力があるのならば、「十字架からおりてきて自分を救ってみろ。」ということでしょう。

通りすがりのエルサレム住民はこのような言葉でイエスを侮辱しました。

●31節から32節.同じように、祭祀長たちも律法学者たちと一緒になって、かわるがわるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア・イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

時の権力者である律法学者と祭司長たちは、自分たちが処刑場に送ったイエスの死を確認するために立ち会ったと思われます。

祭司長の多くがサドカイ人で、律法学者の多くがファリサイ人であり、彼らはお互いに対立していましたが、イエスをあざけることでは一致していました。サドカイ派とかフアイサリ派というのはユダヤ教の一派の呼び名です。

ユダヤ教の代表者が立ち会っていることは、イエスの十字架が、ローマ人の手で執行されているが、ユダヤ教も関与している事実をあらためて確認させます。

「他人は救ったのに自分は救えない」、と言っているということは、逆に言えば、彼らがイエスが病人や死に瀕した人を救ったことを認めていることになります。

つまり、数々のいやしと奇蹟がなされたことを認めているのです。

しかし、そのイエスはいま十字架にかけられて死のうとしているのに、自分を救うことができない。

その事実は、イエスの救いが偽物である証拠だと、彼らはイエスを侮辱します。もし十字架だけで終わればその通りですが、十字架だけで終わらなかったのです。

すなわち、自らの死からの復活でそのことは否定されたのです。

「それを見たら信じてやろう」は、自分の力で十字架を降りたら信じてやろうという意味でしょうが、彼らはイエスに、もし本当に自分が救い主メシア(イスラエルの)であり、イスラエルの王であるとするのであれば、いま十字架から降りて、その証拠を見せよと迫ったことになります。

イエスがイスラエルを異教徒(ローマ)の支配から救い出すはずの救い主メシアであるならば、その異教徒であるローマ人に処刑されて死んでしまうようなことはありえない。

そのような者はメシアではない、と律法学者たちは言いたかったのだと思います。

イエスのなされる奇蹟も父なる神からくる力ですから、イエスを十字架から下ろすことができるのも父なる神の力です。

しかし、それは決められた神のご計画の変更となり、とても出来ない相談でした。

もしここでイエスが十字架から降りていたらキリスト教は生まれなかったでしょう。

「一緒に十字架につけられた者たちもイエスをののしった。」というのは、イエスと同じく十字架にかけられた二人の犯罪人も、祭司長たちと同じようなことを言ってイエスをののしったのでしょう。

こうして、道行く人も、祭司長・律法学者も、犯罪人も、イエスが自分自身が救えないことをののしりました。

ただ、その中の1人は罪を悔い改め、もう一人の犯罪人をとがめ、イエスが御国に導いてくださるように、お願いしました。それがバラバです。

最後に並行箇所であるルカの福音書を見てみたいと思います。

聖書箇所は、23章34節です。

そのとき、イエスは言われた。「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

これは、イエスをののしった群衆とか祭司長たちと同じように十字架にかけた兵士たちをも赦されるようにイエスが願われた執り成しの祈りです。

イエスは、ゴルゴダと呼ばれる刑場に、二人の犯罪人と一緒に引かれていき、十字架につけられました。

民衆やイエスを処刑場に送った議員たちは「お前がメシヤなら自分を救え」と罵りました。

兵士たちも一緒になって「お前がユダヤ人の王なら自分を救って見ろ」と嘲ります。

彼らが言っているのは、自分をさえ救えない者が、「神の子」であるはずがない、ということでしょう。

そうした中でイエスは兵士たちのためにこのように祈られたのです。

彼らとは自分を十字架につけて殺そうとしている人たちのことですから、イエスは敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と教えられましたので、それを今ここで身を持って実践しておられるといえます。

わたしたちは自分によくしてくれる人とか、自分に都合の良い人を愛します。それは当然のことで、本当の愛は敵を愛する愛、無条件で見返りを求めない愛です。

といっても、イエスが身を持ってなされたこの教えの実践は、人間にはとても難しいことと思います。

敵をも愛する心は、やはり聖霊の力を借りなければとてもできる業ではありません。

イエスの御言葉を聖霊の働きと共にイエスと共有することにより、イエスと一体となって共に生きる強い信仰がなければとても出来ない相談です。

ルカによる福音書第23章39節から43節は、ここを、二人のうちの一人がイエスに「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのに対して、イエスが「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス、天国ではありません)にいる」と言われた、という劇的な場面にしています。

このことにより、行いがなくても罪を悔い改めてイエスの言葉を信じればいつでも救われるというキリスト教の教理が生まれます。

それも死ぬ最後の場面で悔い改めれば救われるのです。

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