ピラトから尋問される(1)(マルコ15章)
聖書箇所は、マルコの福音書15章1節から5節です。
共観福音書の並行個所はマタイの福音書27章1節から2節、ルカの福音書23章1節から5節です。
長いので二回に分けます。ここでは1節と2節を読みます。
イエスに対するピラトの裁判と十字架の場面を各福音書を比べてみて見えるところをまとめてみると、イエスがピラトに訴えられた内容は、ローマ帝国に対する反乱を企てた罪です。勿論無実です。
そして、律法学者たちが最高法院で下したイエスの罪は、神に対する冒涜罪です。
イエスをピラトに告発したのは、大祭司たちユダヤの指導者層であって、民衆ではないのです。民衆は扇動されただけでした。
ローマ兵たちは、イエスを「ユダヤ人の王」と呼んで嘲りました。
この嘲笑は、「ユダヤ人の王」ですから、イエスに対すると言うよりイスラエルに対するものだと思われます。
イエスはイスラエルをまとめて、ローマ帝国に反逆しょうとしたのではないのは明らかですから、「ユダヤ人の王」と言うのはおかしいと思います。
●1節.夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
夜が明けると祭司長たちがイエスをピラトのところに連れて行ったのですから、大祭司の尋問(マルコの福音書第14章53節以降)は夜に行われたことになります。
正式の法廷は夜間に開くことができなかったということですから、これは予備?審判(法廷ではなく)でしょうか。
最高法院での審問の場では偽証人は何人も現れましたが、証言が食い違い確たる証拠は得られませんでした。(マタイの福音書26章60節)。
わざわざ偽証人を立てたのに一致した証言は得られなかったのです。
最高法院は偽証人に証言する言葉を合わせるように強制しなかったということでしょう。
しかし、イエスを弁護する者も一人もいなかったのです。
明確な証言を得られないので、大祭司が痺れを切らしてイエスに「お前はほむべき方の子、メシアなのか。」と尋ねたので、イエスはこれに「それは、あなたが言ったことです。・・」(同64節)と答えられました。
まともに答えられなかったので、大祭司は馬鹿にされたと思ったのか、激怒して服を引き裂きながら「神を冒涜した。
これでもまだ証人が必要であろうか。・・」と人々に問いますと、人々は「死刑にすべきだ」と答えました(同66節)
夜が明けると最高法院は正式に法廷を開き、ただちにその答えを持って証人を不要とし、神を冒涜する罪で死刑の判決を下しました(14章64節)。
このイエスの言葉「それは、あなたが言ったことです。」だけでは有罪にできないと思いますので、マタイの福音書にはないが、おそらくマルコの福音書第14章62節のイエスの言葉「イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」、つまり、この言葉の後に大祭司が衣を引き裂いてとありますから、このイエスの言葉を理由として有罪に持っていったと思うのです。
こうしてイエスはピラトのもとに連れて行かれました。
それは、当時の最高法院には死刑を執行する権限がなかった(ヨハネ福音書18章31節)からなのですが、それならこの最高法院の死刑判決は死刑執行の権限がないのに死刑判決を下したことになるのでおかしなことになります。
そうなると最高法院の判決は、死刑執行権をもつローマ側に引き渡して再度審議してイエスを処刑することを前提に、ローマ側と事前に相談の上議決したということになると思うのですがいかがでしょうか(マルコの福音書第15章1節)。
●2節.ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
この個所は、マタイの福音書26章64節と同じです。
おそらく祭司長たちの起訴状は、イエスがユダヤ人の王と主張している、というもので、神を冒涜する罪だと思いますが、「ユダヤ人の王」というのがなぜローマの法律で罪になるかということですが、ローマでは、皇帝のみが王で、自分が王だと主張するものは死刑に処せられるということですから、ローマの支配下の国々では王が二人あってはいけないのです。
したがって、ピラトのイエスに対する尋問の主旨は、この言葉「ユダヤ人の王」であるかどうかにあると思うのです。
それでも、ローマの王でなく「ユダヤ人の王」ですから疑問が残ります。
だからピラトはイエスに罪を見いだせないと言ったのでしょうね。
大祭司らがピラトに訴え出た内容は何も福音書には書かれていません。
ピラトの尋問の主旨から見て、イエスはメシアを自称し、ローマに対する反逆を扇動する者であるとして訴えられたのではないでしょうか。
なぜなら、ルカの福音書23章5節に祭司長たちの言葉として「しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。」とありますから、当時ガリラヤは反ローマ運動の急先鋒である「熱心党」の拠点で、イエスの運動がガリラヤから始まっているので、イエスの運動が反ローマの運動だと印象付けたかったからではと思うのです。
そういう理由でないとピラトは、イエスを処刑することはできなかったのでしょう。
ピラトはイエスについての詳しいことは知らないと思うのですが、ガリラヤの寒村の大工の息子だということとか、イエスの身に起こった出来事とか、その教え、わずかな弟子をひきつれているとか、貧しい人々に人気があるとかをみると、現実的に考えれば、このような人物がなぜユダヤ人の王であるか、ましてやそれがローマへの反逆になるとか、大規模な反乱を企てるとはとても考えられないと思います。
ピラトもさぞ面喰ったでしょう。
ローマから見れば、イエスは新しい教え、つまり、神の国を述べ伝え病人を癒しただけですからね。
ピラトの尋問に対してイエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられました。
イエスのこの返答は、はたしてピラトの尋問に肯定された意味を持つでしょうか。
わたしは、イエスはご自分の運命はもう決まっているのはご存知ですから、イエスの立場からみると、「ユダヤ人の王」かという質問に、その通りだと直接応えるとウソになるので、「それは、あなたが言っていることです」と、否定も肯定のできない答え方をされたのでしょう。
その様に答えればローマ側も死刑の判決が出しやすい。
まとめてみると、イエスはゲッセマネの丘(マルコの福音書第14章36節)でご自身の受難を神のみ心、神の定めとして受け入れておられます。
ピラトは、イエスの処刑を実行するための神の道具にすぎないと認識しておられます。
すべて決まっていることですからイエスにとって2節で答えたこと以上の何の弁解も必要がないのですね。
ピラトが最高法院の要請を受けて、イエスをローマに対する反逆者の罪で処刑するためには「ユダヤ人の王」という称号を処刑の理由として言わざるをえないということもイエスは見抜いておられたと思います。
それで、ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」という問に対してイエスは、「それは、あなたが言っていることです」とだけ答えられたと思うのです。
イエスはすでに覚悟されていましたから、冷静な目で今ご自分に起こっている事態を見ておられたのでしょう。
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