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2018年5月29日 (火)

漁師を弟子にする(ルカ5章)

聖書箇所は、ルカの福音書第5章1節から11節です。

共観福音書の並行箇所は、マタイの福音書第4章18節から22節/マルコの福音書第1章16節から20節です。
ルカの福音書第5章1節から読みます。

●1節.イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。

●2節.イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。

●3節.そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。

●4節.話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

●5節.シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

●6節.そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

●7節.そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。

●8節.これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

●9節.とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。

●10節.シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

●11節.そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

一般に、ルカの福音書の著者はマルコの福音書をよく知った上で書いていると言われています。

それは、ルカの福音書は、その内容も順序もほぼマルコの福音書と似ている所から来ていると思います。

ただ、上記の記事の位置について、マルコの福音書はこの記事をイエスのガリラヤ伝道のすぐ後に置いて、カファルナウムでの働きの前としているのに対して、ルカはナザレで受け入れられなかった記事やカファルナウムでの汚れた霊の男を癒す記事の後に置いているように用い方が違うのです。

マタイの福音書ではガリラヤでの伝道で、多くの病人を癒す前に置いています。

ペトロ(本名シモン)の一家はカファルナウムに住んでいて、イエスが会堂で教えられた後、ペトロの家に入り、彼のしゅうとめの高熱をいやしておられます。

また、イエスはペトロの家に何日間かとどまり、多くの病人をいやしておられます。

ルカの福音書の順序では、ペトロが弟子として召されたときには、ペトロ(シモン)はすでにイエスの多くの働きを目の前に見ており、イエスのことはよく知っていることになります。

マルコの福音書では、ペトロの家での働きの前ですからペトロはイエスのことをよく知らなかったことになります。

このことを前提にして聖句を見てみますと、8節とか11節のペトロの言葉「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」が余りにも唐突なので、これをどのようにとらえるかいろいろと解釈されているようです。

わたしもそのことについては以前から不思議に思っていました。

しっくりこないのですね。

唐突なのは、通常誰でもが思いつくことは、ペトロらは、イエスのことを既によく知っていたということでしょう。

そこに至るまでの過程が省略されているから唐突に思えるということです。

もちろん、もともとペトロに真理を求める素養があって、イエスを師とひそかに仰いでいたところに、御霊に満たされたイエスの神的なカリスマ性に圧倒されて、さらにイエスのなされた奇跡を見て、イエスの召命に躊躇なくついて行ったという見方も否定できません。

しかし、自分自身を振り返ると、わたしは凡人で罪深い人間ですから、召命を受けたと思えば躊躇なくすべてを捨てて付いていけるか疑問に思うのです。

それはおかしいのでしょうか。

わたしなど、イエスの神的なカリスマ性に触れれば、逆に恐れを持ち萎縮してしまうと思うのです。

もし、ペトロが躊躇なくついて行ったのが事実ならば、そのことについてもう少し説明があってもよいのではないでしょうか。

生活のすべてを捨てて、つまり家族とか家とか財産、それに仕事もですが、全てを捨ててついて行くには聖書の描写ではちょっと弱いような気がするのです。いかがでしょうか。

それに、真理を求める素養、知的な素養となると、漁師のペトロに、当時としては教養のない社会的底辺層のペトロに、それが当てはまるか疑問があります。

もうひとつの解釈として、この場面はもっとずっと後の、イエスが十字架にかけられた時、故郷に逃げかえった弟子たちに、復活のイエスが現れた場面を記していると言う見方もあります。

つまり、ペトロの召命は復活されたイエスの召命だという見方です。

福音書はイエスの生前の働きを時系列に並べているのではなく、イエスと言う人物は何者かということを、イエスの出来事をもって著者は語っているとする見方です。

そうすると、ペトロの召命に唐突感はなくなります。

そうでしょう、ペトロが十字架後三日目に復活されたイエスに召命(二回目になりますが)を受けたのなら、ペトロは生前のイエスをよく知っていましたのでこの記事も唐突でなくなると思うのです。

ペトロは実際に復活されたのを見て、改めてイエスの言葉に確信を経て召命を受けたのでしょう。

そうれあれば、8節の「わたしは罪深い者です。」といったペトロの言葉も納得できます。

なぜなら、ペトロは、生前にイエスに離反を予告され(ルカの福音書第22章31節から)それに対し強く否定していたのに、イエスが逮捕された時にイエスの仲間だと言われて、自分が巻き添えを食うのを恐れてイエスを知らないと三度言ってイエスを裏切っている(ルカの福音書22章54節以降)からです。

どちらにしても、「わたしは罪深い者です。」(8節)とか「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(11節)というのは、あまりにも不自然で唐突ですが、イエスが逮捕されたのち、故郷であるガリラヤに逃げ帰っていたペトロが、イエスの復活と言う驚くべき事態に遭遇して、語った言葉で、その上でそういう決心をしたのなら容易に理解できます。

ですからわたしは、弟子たちは復活したイエスの召命を受けて、そこで初めて生前のイエスの言葉の真実を知り、すべてを捨てて改めてイエスの言葉に従う決心をした、と理解すべてはないかと思うのです。

全てを捨ててですよ、仕事も家族も財産も知人も友人も捨ててですよ。

自分の生涯をその人に委ねるのですよ。

本当にイエスと初対面ならば、そのことを実行に移すには、相当な覚悟と準備期間が必要です。少なくとも、わたしのような凡人にはできがたいことです。

次に、ルカの福音書10節のイエスがペトロに言われた言葉、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」というイエスの言葉を考えてみます。

「恐れることはない」とイエスはペトロに言われました。

これは復活のイエスに遭遇したペトロの驚きにイエスは冷静になるように言われたのでしょう。

聖書では、このような言い方は、圧倒的な神的存在の顕現に接して恐れに陥っている人間に向かって、つねに最初に語りかけられる言葉だと言うことです。

また、10節の「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」という言葉も、復活されたイエスの言葉とすれば納得できます。

自分がいなくなった後は、お前がわたしの言葉を伝道することになるということですからね。

初対面の召命でしたら、「今から後」という言葉は、今までと違ってこれからは・・・と言う意味を持つと思いますのでしっくりきません。

この話は、ヨハネの福音書の21章8節(イエスの復活物語)と同じことを言っているのだと思います。

何度も書きますが、福音書はイエスの伝記ではなく、弟子たちの信仰告白と言えますから、時系列に物語が並べられているわけではないのです。

弟子の言葉でイエスを語っているということでしょう。

著者が、イエスに起こった出来事を用いてイエスとはどういう人かということを語っている文書なのですね。勉強になりました。

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