最高法院で裁判を受ける(2)(マルコ14章)
最高法院で裁判を受ける(2)です。
聖書個所は、マルコの福音書14章60節からです。
●60節.そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
呼び集めておいた証人の告発がすべて失敗に終ったので、このままでは釈放しなければならないが釈放はできない。
大祭司は思うように事が運ばないので苛立って自ら告発人となるべく異例の行動に出ます。
彼は裁判長席から立ち上がり、被告として中央に立つイエスのところまで進み出て、真正面から向かい合うのです。
大祭司は全イスラエルを代表する人物、その人物とイエスは公式に向かい合っているのです。
大祭司はイエスに尋ねます。
「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」と威嚇を込めて詰問します。
何が何でもイエスを死刑と決めなければならないので、イエスの言質をとろうと焦っているのでしょう。
イスラエルの運命を決定するもっとも重大な瞬間です。
●61節.しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。
イエスは威嚇を込めた質問に、何も弁明されませんでした。
イエスが、「黙り続け何もお答えにならなかった。」のは、本気になって弁明すれば、今までの証人の証言からして無罪になるのは明らかであったからでしょう。
イエスは父なる神のご計画により、死刑にされなければならないのです。
イエスは死を覚悟しておられましたから、大祭司の質問に肯定も否定もせずに、沈黙をもって答えられました。
イエスはご自分の死が、神の定めである、今がその時であると受け止めておられます。
すでに、ゲッセマネの祈りにおいて、神の裁きの杯を受けることについて、イエスの心は「み心のままに」と言うことで定まっていました(マルコの福音書14章41節)。
大祭司の質問は、「お前はほむべき方の子、メシヤなのか」です。
イエスが何も言わないのであれば、確たる証言もないので、判決を下す根拠がありません。
なにか死刑判決を下す根拠が欲しい。大祭司は必至です。
そして、最後の切札を出します。
大祭司は全イスラエルを代表して、イスラエルの全歴史をかけて問いかけます。イエスが応えなければならない質問で問いかけます。
「ほむべき方」というのは、直接神の名を口にするのは恐れおおいと言うことで、直接神の名を口にするのを避けて神のことをこのような言い方で表したと言うことです。
したがって大祭司の問いは、「おまえは神の子、メシアなのか」という意味になります。
「神の子」という表現は、当時のユダヤ教では神的存在ないし神と同等の存在にある者を指す用語であり、地上の人間が自分を「神の子」とすることは、自分を神と等しくする冒涜であって、死罪に相当する行為であるとされていました。
民衆は自分たちの「メシア」を求めていましたから、両方を結びつけて問いかけたのです。
イエスは、民衆のメシア期待を否定できないので、この質問は、イエスから自分を神の子とするような発言を引き出そうとする詰問となります。
イエスを陥れる最後の切札として実に巧妙な誘導尋問を仕掛けられたのです。それまで一言も発しないで黙っておられたイエスは、この問いに対しては明確に答えられます。
●62節.イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」
イエスの口から驚くべき言葉が発せられます。
「そうです」というのは、調べてみると、福音書はギリシャ語で書かれていますが、エゴー・エイミとなっているそうです。
この語句は、神の自己啓示の呼称ですから、イエスはご自分を神あるいはメシアだと言われたことになります。
これまで弟子たちだけに秘かに語っておられたご自分が「人の子」であるという秘密を、いま大祭司の前で公然と宣言されたのです。(ダニエル書7章参照)
イエスはご自分が「全能の神の右に座る」と宣言されているのです。
イエスは今、ご自分がキリストであることを、この場ではっきりと告げられました。
そうです、死刑に定められることが決まっている法廷で、そのように言われたのです。
どんなに偉い人間が死んでも、人間である限り他のだれかの救いになることはないのです。
イエスはキリストであるから全人類の救いのために殺されるのです。
だからその様な宣言をされたのです。
十字架で殺された人間は、数多くありますが、イエスはキリストであるから十字架死に意味があるのです。
●63節.大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。
●64節.諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。
63節のイエスの宣言の言葉を、イエスをただの人間と見るならば、その人間が口にすることは、自分を神と等しい者とする行為であって、それだけで「神を汚す言葉」、すなわち「冒涜」の罪を構成します。
大祭司はイエスの言葉を聞き、「衣を裂い」たのです。
「衣を裂く」という行為は、調べてみると、神権国家イスラエルにとってあってはならぬ大罪に直面したとき、大祭司が行う法的行為になっていたようです。
「これでもまだ証人が必要であろうか」と大祭司は大きな声で叫びます。
全最高法院の議員がイエスの言葉を聞いています。彼ら全員が証人です。
「諸君は冒讀の言葉を聞いた。どう考えるか」(64節)と大祭司は全員の判断を求め「一同は死刑にすべきだと決議した」のです。
●65節.それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。
判決が出た死刑囚は、死刑になるまでの間このように侮辱や暴力を受けることが習わしであったそうです。
「唾を吐きかけ」るのは、当時も今も最大の侮辱です。
「目隠しをしてこぶしで殴りつけ「言い当ててみろ」と言うのは偽預言者に対する嘲笑です。
「下役たち」、すなわち囚人を警備する神殿守衛隊の隊員がイエスを「平手で」打ち侮辱します。
イエスは、そのような侮辱や暴力を黙って受けておられます。
旧約聖書イザヤ書50章5節から6節の有名な主の僕の個所を思い出します。
「わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」。
こうして、神のイスラエル民族を用いての人類救いの啓示の歴史は幕を閉じることになるのです。
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