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2018年5月22日 (火)

イエスの死(2)(マルコ15章)

イエスの死(2)です。

聖書箇所は、マルコの福音書第15章38節からです。

イエスが亡くなられた後、ここでは人間が直接父なる神との交わりに入ることができる時代が始まったことの象徴として、神と人間を隔てていた神殿の垂れ幕が真っ二つに避け、イエスの処刑に立ち会ったローマ兵の百人隊長が、イエスのことを神の子であると証する場面が語られています。

イエスの身の回りの世話をしていた女性たちが遠くからイエスを見守っていたことも書かれています。

おそらく女性たちは、男性社会の中で、余り注目されなかったので処刑されるイエスが見えるところにおれたのだと思います。

だからこのようにイエス最後の場面を詳しくわたしたちは知ることができたのでしょう。

●38節.すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

イエスが息を引き取られると同時に、エルサレムの神殿では聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。

この幕は、神殿の聖所と至聖所を区別する幕のことです。

年に一度大祭司が贖いの犠牲の血をたずさえてこの幕の中、至聖所に入ることが許されているだけでした。

大祭司は、自分の罪のために多くの犠牲のささげものをして、清めてから入るのですが、その衣には鈴がつけられ、ロープがつけられていました。

神殿の外にいる人々は、鈴の音を聞いて、大祭司が奉仕していることを知りましたが、鈴の音が止まると、彼が神に打たれて死んでしまったことを悟り、自分たちは至聖所に入れないので、ロープで彼を引きずり出したということです。これほど、神と人との間には隔たりがありました。

しかし、それが真二つに裂けました。

しかも、上から下に裂けました。神ご自身が、ご自分と人との隔たりを取り除かれたということです。

この幕が裂けたことは、人はもはや神殿の祭儀制度などによることなく、わたしたちの罪のために血を流し三日目に復活されたイエス・キリストを信じて生きることにより、直接父なる神との交わりに入ることができる時代が始まったことを象徴しているのでしょう。

神と人間とを罪のために隔てていた幕が避けたのです。

神殿の幕が裂けたことは、イエスの十字架上の死が、もはや神殿を必要としない終末的な事態、つまり神の支配到来したことを意味する出来事であることを示しています。

●39節.百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

これが、そばにいた者の素直な反応だと思います。

神ご自身の御業でなければ、こんなことは起こらない、と感じるのは当然です。「神の子」という呼び名は、マルコによる福音書の最初の言葉に、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」とあります。

このことを、一番はじめに悟ったのは、ユダヤ人でもなく、イエスの弟子でもなく、異邦人の百人隊長でした。

この「百卒長」はイエスの処刑を行うローマ兵たちの指揮官であり、彼はイエスの処刑を監督し確認するために「イエスに向かって立っていた」が、イエスが「このように」息絶えられたのを見て思わずこのような言葉を発したのです。

「このように」、というのは何を指しているのかですが、マタイの福音書第27章54節は「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ」こう言ったとしています。

ルカの福音書第23章47節もほぼ同じで、イエスが息を引きとられるときに起こった暗闇などの異象を見て、この告白したと理解しているようです。

しかし、マルコは少し違って、このような異象との関連を何も示唆していません。

この百卒長は、人間の死に方の中でもっとも悲惨な十字架刑死を遂げるイエス、しかも「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか」と叫んで死んでゆくイエスの姿に、神の子を認めたのであると思うのです。

マルコは、福音書の初めに「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」と書き始め、この百卒長の告白を彼の福音書の締めくくりとして置いたのでしょう。

マルコはこの福音書を書いて、イエスの働きと受難を世界に提示し、「このように」生き、「このように」死なれたイエスを、この百卒長のように神の子キリストと告白するよう、世界の諸民族に呼びかけているのではなかろうか。

●40節から41節.婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた、

最後までイエスに従ってきて、遠くからにせよイエスの最後を見届けたのは男の弟子達ではなくイエスの身の回りを世話していた女性たちでした。

彼女たちはガリラヤでイエスの働きに接し、イエスを信じるようになった女性たちです。

女たちは、イエスが決意を秘めてエルサレムに上られる様子を見て、男の弟子たちと一緒にイエスに従ってエルサレムに上ってきました。

男の弟子たちがエルサレムではイエスを王として神の支配が実現し、自分たちがその右と左に座すようになることを期待していたのに対し、女性たちはイエスの受難を真に、直感で理解したのでしょうか。

エルサレムでイエスが逮捕され、裁判にかけられ、ついに十字架刑に処せられるに及んで、男の弟子たちはイエスを裏切り、否認し、逃亡したのですが、女性たちは最後までイエスについて行き、イエスの最後を見とどけました。

最後までイエスについてきて、その死を見とどけた多くの女性たちの中で、三人の女性の名があげられています。

この三人は、日曜日の朝、油を塗るためにイエスの墓に行き、そこでイエスが復活されたことを天使から告げられた女性たちです(マルコの福音書第16章1節)。

マグダラのマリアが筆頭にあげられています。

彼女は復活されたイエスに最初に出会った人物です(マルコの福音書第16章9節、ヨハネの福音書第20章11節から18節)。

彼女はイエスによって7つの悪霊を追い出していただいた女性と伝えられています(ルカの福音書第8章2節、マルコの福音書第16章9節)が、この「7つの悪霊」という表現は多くの重い病を持っていたという意味に解釈されています。

マグダラのマリアはイエスに出会い、不幸な状態から救い出されたことをきっかけとして、イエスに従い仕える者になったことは確実であると思います。

彼女はイエスが行かれるところにはいつもついて行き、イエスと弟子たちの一行に「持ち物を出し合って奉仕した」(ルカの福音書第8章3節)とあります。

次の「小ヤコブとヨセフの母のマリア」は、ヨハネの福音書第19章25節があげている「クロパの妻マリア」のことだと思われます。

もう一人の「サロメ」は、マタイの福音書第27章56節との関係からみて、「ゼベダイの子ら(ヤコブとヨハネ)の母」ということになると思います。

そして前記ヨハネの福音書第19章25節の記事から、このサロメはイエスの母マリアの姉妹と推定されますので、イエスとヤコブ・ヨハネは従兄弟の関係になります。

この三人の女性たちについては、とくに「イエスがガリラヤにおられた時、イエスに従い仕えた者たちである」と記されています。

彼女たちはイエスのガリラヤでの宣教活動の間、いつもイエスと弟子たちの一行につき従い、その身辺の世話から経済的な必要まで、一行の活動を裏で支えました。

表には出ませんが、イエスとその一行の働きは、このような女性たちの裏方の支えがなければ成り立たなかったでしょう。

そして、彼女たちはイエスを信じ慕う一途な気持ちから、一緒にエルサレムに上り、イエスの最後の時まで一緒にいることを願い、イエスの死を見守りました。

そのおかげで、イエス最後の日の状態がこのようにして詳しくわたしたちに伝えられるのです。

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