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2018年5月14日 (月)

イエスかバラバか(マルコ15章)

「イエスかバラバか」というのは福音書の副題としてないのですが、注目すべきことなのでそのことだけを取り上げて詳しく読んでみたいと思います。

聖書箇所は、マルコの福音書第15章15節です。

●15節.「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」

群衆はバラバの釈放を求めました。

イエスの釈放を求めるであろうというピラトの予想は外れました。

それどころか、群衆はバラバの釈放を求める反面、イエスの方を十字架につけるように激しく求めています。

おそらく祭司長らの群集心理の誘導があったのでしょう。信仰的に言えば、サタンが働いたのでしょう。

イエスは群衆を決して責めることなく、憐みを持って応じられました。

群衆に人気があったイエスがここでは強く憎まれています。

この矛盾は理解しがたいところですが、わたしは、サタンの働きではないかと思っています。

その様に考えなければ理解できないのです。

もちろん、バラバを反ローマである熱心党の一員であると考えれば、群衆に人気があったという見方もできるでしょう。

15節では、ピラトは群衆の要求を受け入れて、叫び続ける群衆を満足させようと思ってバラバを釈放しています。

ピラトは群衆を満足させようと思ってバラバを釈放したということですから、ピラトは暴動が起こることを恐れて、群集の機嫌をとるためにバラバを釈放したということになります。

もし、ここでイエスを釈放して、イスラエルで暴動が起こり、皇帝の耳に入れば、自分の地位を危うくすることになるということでしょう。

祭司長らはサタンの誘いがあってか、イエスを処刑するために悪意を持って群衆に働きかけました。

群衆はその働きかけに応じて[群衆が悪意を持ったかどうかは不明ですが]悪事に加担します。

ピラトは、その流れに抵抗、あるいは抵抗するそぶりをしましたが、最終的には群衆の叫びに迎合しました。

ピラトは、バラバを釈放し、イエスには「悪事」を何も見いだすことがないのに十字架刑を決定しました。

裁判官として守るべき法と正義はどこかえ消えてしまいました。

祭司長たちの思惑は、イエスを「ユダヤ人の王」を自称する者、すなわちローマ皇帝の支配に反抗する者として訴えてきましたが、群衆はイエスを尊敬する指導者として仰ぎ、自分たちの王になってほしいと願っていましたから、それを利用して最高法院の正式判決を尊重しながら、群衆の憤激を避けるために、祭の特赦を利用するという逃げ道を考えついたのではないでしょうか。

でも、理由はどうあれ、結果としてみんなが同じようにイエスを十字架につけるために加担しました。

こうして、十字架刑に相当する悪事を見いだせないのにイエスの処刑が決まりました。

このようにイエスを裁く法廷は、法と良心によるのではなく政治的な力関係により決められる不当な裁判と言えます。

ピラトは、イエスの釈放を積極的に提案したように見受けられます。

それは、ピラトのように横暴な支配者は、自分が日頃から軽蔑しているユダヤ人の要求をそのまますんなりと受け入れることは考えられないからです。

むしろ普段なにかと対立している最高法院にこの機会に一矢を報いたいという動機もあったのではないでしょうか。

ピラトは狡猾な政治家です。

最高法院の死刑判決を拒否しないで、しかも民衆の満足を得る逃げ道をうまく見つけたのでしょう。責任転嫁とも言えます。

だからピラトは群衆の要望に念を押したのでしょう。

群衆にバラバでなく「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」(9節)と言っています。

その理由として、彼は「祭司長たちがイエスをねたんで引き渡した」ことが分かっていたからだとあるからです(10節)。

次にマタイの福音書に移ります。

マタイの福音書は、マルコの福音書を踏まえ独自の資料を追加して書いているということです。

マルコの福音書との相違点を見てみます。

マタイの福音書をみて最初に気がついたのは、バラバという名がバラバ・イエスになっていることです。これが正式な名前なのでしょう。

イエスという名は、日本における太郎とか次郎と同じように、どこにでもある名前なのでしょう。

バラバのことは、ルカの福音書23章19節では「暴動と殺人のかどで投獄されていた」とありますが、マタイの福音書では、「評判の囚人」とありますから、評判とあるのは一般に良い評判と考えますので、本当の殺人者ではなく、やはりバラバがローマの権力に反抗していた革命家ではないかと思うのです。

熱心党員をイメージします。

祭りのたびごとに囚人を1人釈放するのは民衆の希望によるのですが、祭りとあるのは過越しの祭りですから、つまり、「過越祭の恩赦」になります。

そういう制度があったかどうか、確かなことは分からないということです。

その地方の「支配者」に任せられていたのではないかということです。

イエスの十字架は、祭司長たちのイエスへの妬み(イエスが自分にはできない奇跡が起こせることとか、群衆に人気があったことなど)が原因だということはマルコの福音書と同じですね(18節)。

イエスが群衆に人気があったのは、わたしは律法支配により押さえつけられていた貧しい人の心が解放されたからではないかと思うのです。

マルコの福音書にはなくてマタイの福音書にあるのは、マタイの福音書第27章10節のピラトに対する妻の忠告の言葉「あの正しい人に関係しないでください。あの人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」です。

これはマタイの福音書独自の記事です。

ことの真偽はわかりませんが、マタイの福音書はイエスを差し置いてバラバを釈放するのがピラトの本意ではなかったことを明確に示そうとしています。

マタイの福音書第27章19節から25節では、ピラトの妻が夢で苦しみ、「あの正しい人に関係しないでください」(19節)という言葉を法廷にいるピラトに伝言しています。

また、群衆の圧力に屈したピラトが水で手を洗って、「この人の血について、わたしには責任がない」(24節)と言ったこと、ユダヤ人たちがこぞって「その血の責任は、我々と子孫にある」(25節)と叫んだことが伝えられています。

このような表現は作為的に見えますので、やはり福音書著者はピラト、つまり、ローマ側に気を使っていると見るべきでしょう。

この福音書が出来たころの時代背景、キリスト教がローマ社会に受け入れられるという時代背景が大きく影響しているのだと思います。

そのほかのマタイとマルコの相違点は、マルコの福音書第15章11節は「祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。」とありますが、同じ個所のマタイの福音書27章20節に「・・イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。」とあります。

また、マタイの福音書はイエスのことを「メシアといわれているイエス」(22節)とありますが、マルコの福音書は「ユダヤ人の王」(9節)としています。

マルコの福音書よりもマタイの福音書が新しいので、マタイの福音書のころはローマ人(異邦人の)信徒も増えてきてイエスの福音はユダヤ人だけではないということで、そのように表現したのでしょう。

どちらにしても、ピラトの妻の夢の話を除けば、マタイもマルコも基本的な内容は変わらないと思います。

さて、次はルカの福音書を見てみたいと思います。

ルカの福音書とマルコとマタイの福音書とは大きく異なります。

ルカの福音書にあるヘロデの尋問がマタイにもマルコにもありません。

ルカの福音書では、ピラトは最初に尋問し、イエスをヘロデのもとへ送り、ヘロデの尋問の後、イエスの身柄は再びピラトのもとへ送られて、その後でピラトは二度目の尋問をしてイエスを死刑ではなく鞭を加えてから釈放するように進言します(16節)。

バラバのことは、その後に突然でてきます。

ルカの福音書では、ヘロデの尋問の時に、祭司長たちと律法学者たちがイエスを激しく訴えた(10節)とあります。ヘロデもイエスを侮辱したとあります。(11節)ルカの福音書ではイエスが侮辱されたのはこの個所のみです。

イエスを訴えたのは、マタイとマルコは祭司長たちと群衆ですが、ルカでは「祭司長たちと議員(指導者たち)と民衆」(13節)となっています。

ルカでは、ピラトは群衆のイエスを十字架にとの叫びにやむを得ず要求を受け入れてイエスを死刑に決定したと強調しています。

ルカでは、ピラトはイエスの釈放を求めたが、バラバについて触れていません。祭司長たちの「扇動」も「説得」の記載がありません。

まとめると、ルカの福音書の場合は、ヘロデの尋問が記事に加わり、逆にバラバ釈放の根拠となる「過越祭の恩赦」が抜けていることが大きく違っています。

ルカの福音書第23章5節から12節では、ピラトの「わたしはこの男になんの罪も見いだせない」という言葉に、祭司長たちが、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら民衆を扇動しているのです。」と言い張りましたから、ピラトは、イエスは主にガリラヤで活動しガリラヤ人であることを知り、イエスの裁判をガリラヤの領主であるヘロデに委ねようとして、ちょうどエルサレムに滞在していたヘロデのもとにイエスを送ったことを伝えています。

ピラトは罪状のはっきりしないイエスの裁判に関わることから逃れようとしたのでしょう。

イエスは、ユダヤ人から告発され、ローマ人によって処刑されることを神の定めとして受け止め、黙ってそれに従われました。

その神の定めは、わたしたち過去・現在・未来の全人類を罪の支配から解放して、神の支配下に置き、新しい人間の創造するためでした。

見方を変えれば、これらの出来事は天上における神とサタンの戦いが、地上で行われたことになります。

その神のみ業は、イエスが十字架の死を受け入れることによって成し遂げられるのです。それをやめさせようとするのがサタンの働きです。

一般には、マルコの福音書が事実に近いのではと言われています。

ヘロデの尋問が事実あったのかどうかは、わからないということです。

マタイ福音書のピラトの妻の夢の話はマタイ独自の資料をもとにしたのでしょうか、また、ルカの福音書で語られるヘロデ・アンティパスとイエスとの出会いも、確かなところはわかりません。

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