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2018年5月 1日 (火)

ゲッセマネで祈る(1)(マルコ14章)

聖書箇所は、マルコの福音書14章32節から42節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章36節から46節、ルカの福音書22章39節から46節です。

長いので二回に分けます。(1)では36節までを読みます。

●32節.一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

イエスと弟子の一行は最後の晩餐のあと、エルサレム市街を出てキドロンの谷を経てオリーヴ山の方に向かいます。

ゲツセマネとはどのような所かを調べてみますと、キドロンの谷の向こう側、すなわちオリーヴ山の西側斜面にある園だと言うことです。

イエスは弟子たちと共にその園に入られました。

なお、「ゲッセマネ」という名は「油絞り器」という意味のヘブライ語に由来する名だと言うことですから、園にはおそらくオリーヴの木が多く植えられていて、オリーヴ油を絞る作業が行われていた場所ではないかと思われます。

マタイの福音書とルカの福音書の並行個所は、ほぼマルコの福音書と同じです。

この「ゲッセマネ」の園でのイエスの祈りは、逮捕される直前のことです。

これからイエスの身に起こる出来事は、イエスにとって深い苦悩を伴うものでした。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を伴い、他の弟子たちを置いてイエスは園を深く入られて一人で祈りに入られます。

●33節.そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、

この三名の弟子は重要な場面、つまり、イエスがヤイロの娘を生き返らされたとき、山上でイエスが変容されたときなどに伴われた弟子です。

したがって、この三名の弟子は、イエスの側近、特別に選ばれた弟子といえます。

イエスが側近の三名を祈りの場に伴われたのは、おそらく祈りの場のイエスの姿を見せるためだと思います。

イエスがひそかに背負っておられる重荷、それは、全人類が負う神との断絶と言う罪です。

簡単に言えば、造られた目的に反して勝手に生きているという、人間が神に負っている罪です。

その罪を一身に背負いその罪の重さに苦しまれているのです。

その苦しみは人類救済の神のご計画を成し遂げるために通らなければならないことでした。

その苦しみは、人間と神との関係を回復させるための神のご計画でした。

「イエスはひどく恐れてもだえ始め」とありますが、これは三名の弟子が目撃した事実でしょう。

なぜならば、弟子にとって師である神の子イエスに人間的な弱点があるところを見るわけですから、キリスト教にとっては決して有利なこととは言えませんので、そのように不利なことをわざわざ書いているのはそのことが事実であることを物語っていると思うのです。

通常は師の弱点を隠して美化したいものです。

ましてやありもしない師の弱点を作り上げてわざわざ福音書に残すことなどとても考えられません。

まさにイエスは、死を前にして恐れおののき苦悶されたのです。

人間であれば当たり前ですが、神の子イエスである師にとってはあってはならないことです。

そして、こういうイエスの姿を言い換えると、イエスは神と断絶し罪に沈む人間として人類の罪を背負われたということでしょう。

弟子はそのイエスの姿を目撃し、そのことがイエスの人格にかかわる重大な意義をもつ事実ですから、福音書記者はありのままを後の世に残したのでしょう。

●34節.彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」

イエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と言われました。

イエスの死ぬほどの悲しみとはいったい何でしょうか。

何物をも恐れないイエス、権力者の脅しや律法学者たちの批判にいっさい動揺することなく活動された強いイエスです。

そう、神の子イエスが死ぬとか苦しむことなど考えられませんが、人間としてのイエスならば考えられます。

その強さは父なる神が共におられたからといえますが、そのイエスが死を前にして「ひどく恐れてもだえ始め」、「死ぬばかりに悲しい」と言われているのです。

しかし、このイエスが死ぬことを恐れて苦悶されたとは考えられないことです。

これはやはり33節に書いたように、全人類の罪を背負い、神との断絶の中で十字架を迎える苦悶なのでしょう。

真実は誰にもわかりません。これは永遠の神秘です。ヒントは35節ですね。

●35節。少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
三人の弟子は、祈られるイエスの側にいたということですが、イエスの祈りの言葉は聞こえたのでしょうか。

わざわざ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三名について来るように求められたのですから、イエスの祈りの声を聞くことが出来たと思うのです。

「地にひれ伏して」イエスは祈られました。

いかに深刻な祈りであるかが窺われます。

祈りは、神との一対一の交わりです。他者が入ってくる余地はありません。

また、イエスはことに及んで逃げるような方ではありません。

したがって、このイエスの祈りは、十字架の苦しみから逃れたいという願い事を聞き届けていただくものではなく、ご自分の心を神の願いに沿うように整えてくださいと言う祈りであったのではないかと推測します。

十字架にかかることが苦しみで、そのことに意味があるのならば、十字架の苦しみはイエスだけの特別な死刑の方法ではなく、人間の歴史上多くの人が十字架で亡くなっていますから、イエスはただの人間になっています。

●36節.こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

「アッバ、父よ、」のアッパは、「お父さん」とか「パパ」とか言うような、親しみを込めて父を呼ぶときに使います。

イエスは親しみをこめて、神なる父にこの杯を取り除いて下さいと願っておられるのでしょう。

「この杯」というのは、これも何かを象徴しているのでしょう。

次の理由から、決して祝杯の杯ではないと思います。

調べてみると、それは、旧約聖書では神の救いや祝福を指す(詩編23・5など詩編に多い)と同時に、神の審判の象徴として用いられているようです。

預言書では圧倒的に審判の象徴が多く、新約聖書ではヨハネ黙示録で「杯」が審判の象徴として用いられています。

盃を審判の象徴とすると、「わたしから取りのけてください。」というのは、盃の中身は神の怒りと思いますから、神の怒りをわたしから取りのけて下さい、と祈っておられることになります。

この神の怒りはもちろん人間の罪なのですが、イエスは罪に沈むわたしたちを憐れまれてその様な祈りをされたのだと思います。

ご自分の十字架の受難が神のご計画の中での使命だとご存じでありながら、「取りのけてください。」と祈らずにはいられない矛盾、イエスの祈りは、この矛盾による苦悩により一層深い祈りに導かれたのでしょう。

人間としてのイエスが表に現れているのでしょう。

「アッパ」と呼び親しく父なる神に呼びかけておられたイエスが、「恐れてもだえ始め」、さらに「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と言われて、苦しんでおられるのです。

その苦しみは、罪に沈む人間が神の怒りにふれ、罪と裁きの前に苦しむのを憐れむが故の苦しみだと思います。

言い換えれば、イエスはこの人間の世のすべての罪悪と苦難を一人で背負われたということでしょう。

それはイエスに罪があったからではなく(なぜならば、復活によってイエスが罪なき方であることが神によって証明されています。)、罪のない方が人間の罪を背負って、神の怒りを一身に受けて苦しんでおられるのです。

まさに、旧約聖書の預言者が「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ書53章6節)、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪とされた」(コリントⅡ5章21節)です。

この事態は、キリスト教の奥義であり、神秘としか言えません。

そしてイエスは最後に、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との言葉で締めくくられます。

それは、自分の死が父の望まれる計画であり、それ以外に人類救済の方法がないのであれば、それが自分にとってどのように恐ろしく耐えがたい事態であろうと、その父の御心にゆだねられたということでしょう。

わたしたちは、このイエスの姿から、神を信じると言うことが、どのようなことかを学ぶべきなのでしょう。

この悪魔が支配する世の中で、信仰を持つことの厳しさを教えておられると思います。

わたしなど改めてキリストを信じることに尻込みしてしまいます。

ただ。神の憐みを願って助けて下さいと祈るのみです。

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