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2018年5月の記事

2018年5月29日 (火)

人を裁くな

聖書箇所は、ルカの福音書第6章37~42節です。

共観福音書の並行箇所は、マタイの福音書第7章1~5節です。

ルカの福音書の沿って読んでみたいと思います。

イエスはこの世に神の支配が始まったことを告げにこられました。

それは、神の絶対無条件による平等、恩恵の支配だと告知されています。

そして、その神の恩恵が支配する場に生きるわたしたちに、父なる神と同じようにその恩恵の場で隣人に関わるように、つまり、マタイの福音書6章36節で「慈愛深い者」であるように、37節でその内容を、「裁くな」「人を罪人だと決めるな。赦しなさい」、38節では、37節を積極的に、「与えなさい」といわれました。

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漁師を弟子にする

聖書箇所は、ルカの福音書第5章1節から11節です。

共観福音書の並行箇所は、マタイの福音書第4章18節から22節/マルコの福音書第1章16節から20節です。
ルカの福音書第5章1節から読みます。

●1節.イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。

●2節.イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。

●3節.そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。

●4節.話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

●5節.シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

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2018年5月28日 (月)

天に上げられる

聖書箇所は、マルコの福音書第16章19節から20節です。

共観福音書の並行個所はルカの福音書第24章50節から53節です。

●19節.主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。

●20節.一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕

「天に上げられ、神の右の座に着かれた」は、当時共同体においてイエスが復活されたことを言い表す定型文であったのではということです。

主イエスは天に上げられ、天と地の一切の権能を授かって、2000年前から聖霊によってこの人間世界を支配されています(マタイの福音書第28章18節)。

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2018年5月25日 (金)

弟子たちを派遣する(2)

聖書箇所は、マルコの福音書第16章17節です。

「弟子たちを派遣する(1)」に続き(2)です。

なお、最後に並行個所であるマタイの福音書第28章16節から20節を取り上げてみたいと思います。

●17節.信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
この節では「信じる者には、つぎのようなしるしが伴う」といわれます。

そのしるしが列挙されていますが、それは「新しい言葉を語る」と18節の「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず」、という二つのしるしのことを言っているのでしょう。

「新しい言葉を語る」というのは、使徒言行録2章に出てくる「異言」を指しているのでしょう。

具体的には、祈りとか讃美において、御霊の働きによって言語能力が直接コントロールされて、知らない言語で語り出すことを指しています。

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弟子たちを派遣する(1)

聖書箇所は、マルコの福音書第16章14節から18節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書第28章16節から20節です。

二回に分けて投稿します。(1)は16章16節までを読みます。

●14節.その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

十一人(イエスが直接選ばれた十二人の弟子からイエスを裏切ったユダを除いた十一人)の弟子は、マグダラのマリアが復活のイエスに出会った顕現報告、エマオの道中でイエスの顕現体験をした弟子二人(十一人以外の)の報告も信じなかったのです。

イエスはその弟子たち十一人の前に顕現されます。

そして、叱責されます。

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2018年5月23日 (水)

マグダラのマリアに現れる

聖書箇所は、マルコの福音書第16章9節から11節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書第28章9節から10節です。

●9節.イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。

ここでは復活したイエスのことが語られています。

それに、前節までは複数の女性の体験でしたが、ここではマグダラのマリアだけです。

こうして、マリアを別に取り上げているのは、復活されたイエスの顕現に最初に接したのは、マグダラのマリアであることを表しているのでしょう。

このことは、初期のキリスト共同体の中で広く流布していた伝承であったのでしょう。

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2018年5月22日 (火)

イエスの死(2)

イエスの死(2)です。

聖書箇所は、マルコの福音書第15章38節からです。

イエスが亡くなられた後、ここでは人間が直接父なる神との交わりに入ることができる時代が始まったことの象徴として、神と人間を隔てていた神殿の垂れ幕が真っ二つに避け、イエスの処刑に立ち会ったローマ兵の百人隊長が、イエスのことを神の子であると証する場面が語られています。

イエスの身の回りの世話をしていた女性たちが遠くからイエスを見守っていたことも書かれています。

おそらく女性たちは、男性社会の中で、余り注目されなかったので処刑されるイエスが見えるところにおれたのだと思います。

だからこのようにイエス最後の場面を詳しくわたしたちは知ることができたのでしょう。

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2018年5月21日 (月)

イエスの死(1)

いよいよ十字架刑もクライマックスに入ります。

イエスの死を全地が嘆きます。

聖書箇所は、マルコの福音書15章33節から41節ですが、二回に分けまして、(1)は、マルコの福音書15章33節から37節です。

ここでは、イエスが息を引き取られるまでを読みます。

共観福音書の並行箇所は、マタイの福音書27章45節から56節、ルカの福音書23章44節から49節です。

マルコの福音書15章
●33節.昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

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2018年5月19日 (土)

十字架につけられる(2)

十字架につけられる(2)です。

ここでは、イエスが十字架につけられたとき、同時にイエスの両側で十字架につけられた強盗の話しを中心に書いてみたいと思います。

聖書箇所は、マルコの福音書15章27節から32節です。

●27節.また、イエスと一緒に二人の強盗を、1人は右に、もう1人は左に、十字架につけた。

ここで初めて、イエスが他の二人と同時に処刑されたことが語られます。

ローマ人は十字架刑を数人まとめて執行する習慣があったということです。

ここでの二人が「強盗」と呼ばれていますが、彼らはたんなる物盗り強盗の類ではなく、ローマへの武力反抗を試みる熱心党の活動家であったのではないかということです。

したがって、この強盗というのは政治犯ではないかということです。

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十字架につけられる(1)

ここから四回に分けて。イエスの十字架上での出来事を、マルコの福音書にそって読んでいきたいと思います。
福音書の記載は、まことにリアルで実証的であるので感心します。

このような嘘は書けないというのがわたしの感想です。

二回に分けまして、本稿では、イエスが十字架を背負いゴルゴダに引かれていくところから十字架につけられたところまでをまとめてみました。

聖書箇所は、マルコの福音書15章21節から26節です。

共観福音書の並行箇所は、マタイの福音書27章32節から44節、ルカの福音書23章26節から43節です。
マルコの福音書15章

●21節.そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。

当時犯罪人は、処刑場であるゴルゴダの丘まで自分が架けられる十字架を自分で担いでいくようになっていました。

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2018年5月18日 (金)

復活する

聖書箇所は、マルコの福音書第16章1節から8節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第28章1節から8節/ルカの福音書第24章1節から12節です。

●1節.安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。

イエスは金曜日に葬られましたが、金曜日の日没から始まる翌日の土曜日は安息日です。

その安息日は土曜日の日没とともに終わりますので、安息日が終わったので三人の女性がイエスの遺体に塗るための油と香料を買いに出かけました。

そして、翌日の日曜日早朝に前夜に買い求めておいた油と香料を持ってイエスの墓に行きます。

その三人の女性は、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」でした。

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墓に葬られる

聖書箇所は、マルコの福音書第15章42節から47節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第27章57節から61節/ルカの福音書第23章50節から56節です。

●42節.既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、

当時のイスラエルでは日の出とともに一日が始まり、日没とともに一日が終わるということですから、「既に夕方になった。」の夕方は、日没前の夕方を指すのだと思います。

イエスが十字架にかけられたのは安息日の前日です。

安息日には遺体を十字架から降ろして埋葬することは労働ですから禁じられています。

「夕方になった」ということは、安息日は日没とともに始まりますから、一刻も早くイエスの遺体を埋葬する必要があるために処刑を急いだと思います。

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2018年5月15日 (火)

兵士から侮辱される

聖書箇所は、マルコの福音書第15章15節から20節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書27章27節から31節です。

マルコ福音書では、出来事の順序として、十字架刑の判決があり、続いて鞭打ちが行なわれ、それから官邸内(中庭)でローマ兵たちによる侮辱行為が行なわれました。

これらは実際にあった出来事でしょう。

十字架刑の前には事実鞭打ちがあったそうです。

鞭打ちは公衆の目の前で見せしめのために行なわれましたから、判決が出された直後に官邸を囲む城門に至る階段の下にいる群衆からも見える場所で実施されたと思います。

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2018年5月14日 (月)

イエスかバラバか

「イエスかバラバか」というのは福音書の副題としてないのですが、注目すべきことなのでそのことだけを取り上げて詳しく読んでみたいと思います。

聖書箇所は、マルコの福音書第15章15節です。

●15節.「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」

群衆はバラバの釈放を求めました。

イエスの釈放を求めるであろうというピラトの予想は外れました。

それどころか、群衆はバラバの釈放を求める反面、イエスの方を十字架につけるように激しく求めています。

おそらく祭司長らの群集心理の誘導があったのでしょう。信仰的に言えば、サタンが働いたのでしょう。

イエスは群衆を決して責めることなく、憐みを持って応じられました。

群衆に人気があったイエスがここでは強く憎まれています。

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死刑の判決を受ける

聖書箇所は、マルコの福音書15章6節から15節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書27章15節から25節、ルカの福音書23章13節から25節です。

まず、共観福音書全体を通して言えることは、聖書著者(あるいは教団)がイエスの裁判に関して、ユダヤ人の責任を重くし、ローマの責任を軽く描こうとする傾向にあるように思います。

マルコの福音書から見ていきたいと思います。

●6節.ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。

祭りの度ごとに囚人を1人釈放する慣行があるのですね。

このような慣行はローマ側の資料にもユダヤ教側の資料にもないということです。

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2018年5月12日 (土)

ピラトから尋問される(2)

聖書箇所は、マルコの福音書15章1節から5節の3節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書27章1節から2節、ルカの福音書23章1節から5節です。

●3節.そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。

祭司長たちが「・・いろいろとイエスを訴えた」とありますが、この色々と、というのは、おそらく、ルカの福音書第23章5節の「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです。」ということではないでしょうか。

前にも書きましたが、当時ガリラヤは反ローマ運動の急先鋒である「熱心党」の拠点でしたから、イエスの運動がガリラヤから始まったと言って、イエスの運動が反ローマの運動だと印象付けたかったのではないかと思うのです。

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ピラトから尋問される(1)

聖書箇所は、マルコの福音書15章1節から5節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書27章1節から2節、ルカの福音書23章1節から5節です。

長いので二回に分けます。ここでは1節と2節を読みます。

イエスに対するピラトの裁判と十字架の場面を各福音書を比べてみて見えるところをまとめてみると、イエスがピラトに訴えられた内容は、ローマ帝国に対する反乱を企てた罪です。勿論無実です。

そして、律法学者たちが最高法院で下したイエスの罪は、神に対する冒涜罪です。

イエスをピラトに告発したのは、大祭司たちユダヤの指導者層であって、民衆ではないのです。民衆は扇動されただけでした。

ローマ兵たちは、イエスを「ユダヤ人の王」と呼んで嘲りました。

この嘲笑は、「ユダヤ人の王」ですから、イエスに対すると言うよりイスラエルに対するものだと思われます。

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2018年5月 9日 (水)

ペトロ、イエスを知らないと言う

聖書箇所は、マルコの福音書14章66節から72節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章69節から75節、ルカの福音書22章56節から62節です。

●66節.ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、

●67節.ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」

さて、いよいよペトロがイエスを否認する場面です。

イエスに死刑の判決が下りた時、ペトロは大祭司の屋敷の庭で「大祭司に仕える女中の一人」に問いつめられていました。

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2018年5月 8日 (火)

最高法院で裁判を受ける(2)

最高法院で裁判を受ける(2)です。

聖書個所は、マルコの福音書14章60節からです。

●60節.そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」

呼び集めておいた証人の告発がすべて失敗に終ったので、このままでは釈放しなければならないが釈放はできない。

大祭司は思うように事が運ばないので苛立って自ら告発人となるべく異例の行動に出ます。

彼は裁判長席から立ち上がり、被告として中央に立つイエスのところまで進み出て、真正面から向かい合うのです。

大祭司は全イスラエルを代表する人物、その人物とイエスは公式に向かい合っているのです。

大祭司はイエスに尋ねます。

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最高法院で裁判を受ける(1)

聖書箇所は、マルコの福音書14章53節から65節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章57節から68節、ルカの福音書22章54節から55節・63節から71節です。

長いので二回に分けます。(1)では59節までを読みます。

●53節.人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。
イエスはまず大祭司のところに連れていかれました。

逮捕したのがローマの軍隊であっても、それはユダヤ教当局、大祭司側からの要請によるものですから、当たり前です。

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2018年5月 6日 (日)

一人の若者、逃げる

聖書箇所は、マルコの福音書14章51節から52節です。

共観福音書の並行個所はありません。

●51節.一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、

●52節.亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

「一人の若者」とは誰を指すのでしょうかは、調べてみても、よくわかりませんでした。弟子の一人であることは間違いないでしょう。

しかし、若者となっていますから、弟子の中で若者と言えば、ヨハネを思い浮かべます。

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裏切られ、逮捕される

聖書箇所は、マルコの福音書14章43節から50節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章47節から56節、ルカの福音書22章47節から53節です。

●43節.さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。

「十二人の一人であるユダが」と強調して、そのユダが師であるイエスを裏切り、イエスを逮捕するよう役人を誘導したことを明確にしています。

ユダは「どうすれば折りよく」(マルコの福音書14章11節)祭司長たちにイエスを引きわせるのか機会をうかがっていました。

その機会がいま到来したのです。

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2018年5月 2日 (水)

ゲッセマネで祈る(2)

ゲッセマネで祈る(1)の後半です。

聖書箇所は、マルコの福音書14章37節から42節です。

●37節.それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。

イエスが苦悶の中で祈っておられるのに三人の弟子たちは眠っていたのです。イエスは祈り終え眠っている三人の弟子を見て、ペトロに声をかけられます。

ここではペトロではなく「シモン」と呼びかけておられますから、このイエスの言葉が後の教団の作文ではなくイエスの生の声であることが窺われます。

なぜならば、シモンはペトロの本名で、ペトロは通称ですから、イエスはここであらたまってペトロを本名で呼ばれたのです。

イエスの真剣さが窺われます。

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2018年5月 1日 (火)

ゲッセマネで祈る(1)

聖書箇所は、マルコの福音書14章32節から42節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章36節から46節、ルカの福音書22章39節から46節です。

長いので二回に分けます。(1)では36節までを読みます。

●32節.一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

イエスと弟子の一行は最後の晩餐のあと、エルサレム市街を出てキドロンの谷を経てオリーヴ山の方に向かいます。

ゲツセマネとはどのような所かを調べてみますと、キドロンの谷の向こう側、すなわちオリーヴ山の西側斜面にある園だと言うことです。

イエスは弟子たちと共にその園に入られました。

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ペトロの離反を予告する

聖書箇所は、マルコの福音書14章27節から31節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章31節から35節/ルカの福音書22章31節から34節・36節から38節です。

●27節.イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。

イエスは弟子たちに「あなたがたは皆つまずく」と言われました。

「つまずく」というのは、わたしたちは道を歩いていて石につまずくとよく言いますが、この場合は、イエスが十字架で処刑され死亡する事態に遭遇し、イエスへの期待が失われて失望することだと思います。

『わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう』とありますが、この言葉はどういうことでしょうか。

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