ベタニアで香油を注がれる(マルコ14章)
聖書箇所は、マルコの福音書14章3節から9節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章6節から13節です。
●3節.イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
イエスはエルサレムに入られてから、夜はベタニアで過ごされました(マルコの福音書11章11節)。
ベタニアの場所を調べてみますと、エルサレムからエリコの方向に約三キロ離れたところにある村です。
その村にはマルタとマリアの姉妹と兄弟ラザロが住んでいました(ヨハネの福音書11章1節)。
したがって、ベタニアはイエスにとって心が落ち着くところで、暖かく迎える支持者が多い村であったのでしょう。
「重い皮膚病の人シモン」のこの「重い皮膚病」とはらい病のことを指していると思います。
シモンが自分の家をイエス一行に提供していたのは、病を癒してくださるイエスの奇跡と愛に感動して、イエスの支持者となったからでしょう。
「食事の席」は、当時は男権社会ですから、男性と女性が共に食事をすることはなかったはずです。
しかし、イエスの席ではそういうことが許されていたのです。
如何にイエスという方が型破りな人であったかを伺えます。
この女性は、石膏の壷を壊して香油をイエスの頭に注ぎました。
この香油は「非常に高価なナルドの香油」とありますので、この女性の真剣な心情が見られます。
「ナルドの香油」は5節に「三百デナリ以上」とあります。
三百デナリといえば、一デナリが労働者の一日分の収入ですから、ほぼ一年分の収入に相当する額といえます。
このような高価な香油を持っている女性は普通の主婦ではなく、おそらく、売春婦のような職業の高収入の女性であったと推察されます。
マグダラのマリアではないかと言われています。
それにしても、この女性は生活の唯一の頼みである蓄えをすべて使ってしまったのではないでしょうか。
己のすべてを委ねた信仰の在り方がそこに見られます。
●4節.そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。
●5節.この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
それ見た人は「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。」と言って女性を責めます。
周りの人の目には、この女性のしたことは、香油を無駄にすることに見えたのです。
それは、死に臨んで今ここにおられるイエスを理解していなかったことを示しています。
もし敬愛する寝食を共にする師が死に臨んでおられることを理解していたならば、その方に香油を注ぐことは無駄づかいには見えなかったはずです。
香油をイエスに注いだ一人に女は、直感で敬愛するイエスが死に臨んでこの場におられることを知っていたのでしょう。
今がイエスと共におれる最後の機会だと言うことを知っていたのでしょう。
だから、今自分のもっているいちばん大切なもの、自分のすべてを注ぎ出す行為に出たのでしょう。
ある意味、後先を考えない行為です。
死に臨むイエスを一人の女が直感で知ったと書きましたが、直感ですから理屈ではないのです。
直感、すなわちインスピレーシヨン、すなわち聖霊の働きということでしょう。それは信仰だと言えるのではないでしょうか。
そういえば、イエスの十字架刑の場所に最後までついてきて、遠くから見守っていたのも女性だけでした(マルコの福音書15章40節から41節)。
女性は、直感を感じるのに優れているのかもしれません。
現在のキリスト教会でも、女性はなくてはならない働き手です。
「貧しい人々に施すことができたのに」(5節)と批判が出ています。貧しい人に施しをするのは神のみ心に適うことです。しかし・・・・。
●6節.イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
イエスに対する計算抜きの献身は、計算高いこの世の精神からすればまことに愚かな行為です。
しかし、イエスはこの女性の行為を「わたしに良いことをしてくれたのだ」と言っておられます。
ご自分にとって良いこと、価値あることだと言っておられるのです。
●7節.貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
貧しい人々に施しをすることは、神のみ心に沿っているので正しいことです。しかし、いまはイエスの時なのです。
イエスはまもなくこの地上から去ろうとされています。
周りの人はそのことに気付いていないが、女性は気付いていました。
だから、女性にとって今はイエスのために何かをなしうる最後の時でした。
●8節.この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
女性の行為について、色々と推測はしましたが、聖書は何一つ女性の動機について語っていません。
そこでイエスは、その女性の行為の動機を語ります。
つまり、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」、と。
埋葬するとき遺体に香油を塗るのは当時の習慣でした。
実際、マルコの福音書16章1節から2節にはイエスの遺体に油をぬるために墓に駆け付けた女性のことが書かれています。
実際は、その時には、イエスは既に復活されて墓場にはイエスの遺体がなかったので塗ることはできなかったのですが・・・。
とすると、この女性の行為はまさに「前もって」、すなわちイエスがまだ生きておられる時にイエスの体を遺体として扱い、油を注いで埋葬の準備をしたことになります。
わたしたちであれば、まだ生きているのにその様なことをされたらあまり気持ちの良いものではありませんが、イエスはご自分をすでに死んだ者とされて、その行為を好意的に意味あることとして受け入れておられるのです。
●9節.はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
「世界中どこでも・・この人のしたことも記念として」ですから凄いことです。
「世界中どこでも、」は、時代を超えて、キリスト者がいるところならどこでもということでしょう。
この女性の行為にはそれほど重要な意味があると言うことでしょう。
でも、その女性の名は伝えられていません。
その理由を推測しますと、この女性の行為はその女性個人の問題だけでなく、これから後、十字架の福音を受け取るすべての人間の問題であることを示しているのではないでしょうか。
そのために、「世界中どこでも福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられ」なければならないのです。
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