神殿の崩壊を予告する(マルコ13章)
さていよいよ重要な出来事である共観福音書三つに記載されている「神殿の崩壊を予告する」の個所です。
内容は「神殿の崩壊を予告する」(マルコの福音書13章1節から2節)、「終末の徴」(同13章3節から13節)「大きな苦難を予告する」(同13章14節から23節)「人の子が来る」(同13章24節から27節)「いちじくの木の教え」(同13章28節から31節)そして最後に「目を覚ましていなない」(同13章32節から37節)ですが、長いので投稿文は副題ごとに作成したいと思います。
マルコの福音書に沿って読んでいきたいと思います。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書は24章1節から44節。ルカの福音書21章5節から38節です。
さて、導入部分の「神殿の崩壊を予告する」から始めます。
聖句はマルコの福音書13章1節と2節です。
●1節.イエスが神殿から出て行かれる時、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんください。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょうか」。
●2節.するとイエスは言われた、「あなたはこの大きな建物に気をとられているのか。崩されないままの石の上に残る石は一つもないようになるのだ」。
イエスのエルサレムの神殿崩壊の予告の導入部分です。
イエスは預言者として語られます。
エルサレムに入られたイエスの活動個所は、神殿が主であったと言うことです。神殿では、鞭をふるって商人を追い出すと言うようなイエスらしからぬこともされました。
イエスでも激しい感情を表に出されることもあるのです。
といってもこのようなイエス行為は、憐みの故、愛するが故の行為と言えます。愛のない怒りは、悪魔の怒りです。
神殿はユダヤ教の牙城ですから、当然イエスに敵対する勢力との確執もあります。
それらを承知しながら、十字架を覚悟したイエスの地上での最後の活動ということでしょう。
イエスは神殿から出て行かれる時、弟子たちにユダヤ教神殿の崩壊を預言されました。
弟子たちは壮厳な神殿を見て驚嘆の言葉を発します。
「なんという見事な石、なんという立派な建物でしょうか」(1節)と。
この時の神殿は、捕囚後再建された第二神殿で、ヘロデ大王が修築したものだということで、当時のヘレニズム世界の 「七つの驚異」の一つとされていたそうです。
ヨハネの福音書2章20節には「この神殿を建てるのに四十六年もかかった」と書かれています。
2節には壮厳な神殿に気をとられている弟子たちにイエスは 「・・崩されないままの石の上に残る石は一つもないようになるのだ」と言われます。
まさに神殿の崩壊を語られたのです。
神殿はユダヤ教の牙城です。外部の人々もおりますが、祭司長や律法学者はイエスを敵とみなして監視していたでしょう。その中で言われたのです。
いつもはたとえを使っておられますが、この時は誰でもが分かるように明確な言葉で語っておられます。
このことがイエスを殺そうとする直接の動機になったと思うのです。(マルコの福音書11章18節)
マルコの福音書14章58節「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」というようにイエスの有罪を証言する材料となっています。
マルコの福音書15章29節では、十字架の上のイエスに対し通りすがりの者が、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と嘲笑の言葉を投げかけています。
神殿はイスラエルの民の存在の拠り所です。
その神殿の崩壊を公然と語るような者をどうして生かしておくことはできなかったのでしょう。
神殿の崩壊ということはこの時代のユダヤ教宗教体制の崩壊、すなわち、イスラエルの滅亡と言うことです。
それは実にこの時から約40年後、紀元70年にイスラエルはローマ帝国に滅ぼされ、神殿は崩壊したのです。
なお、共観福音書が紀元70年以降に書かれたので事後預言ではという意見もありますが、マルコの福音書は紀元70年以前の可能性もあり、なによりも福音書執筆時のキリスト共同体にとっては、ユダヤ教の神殿とイスラエルの崩壊は重大な出来事であったでしょうが、イエスが生前にそのことを預言していた事実を知り、それが現実に実現したから驚嘆して、共観福音書すべてに書かれたのだと思うのです。
神殿とイスラエルの崩壊だけではイエスの教えを告知する福音書にキリストの共同体がここまで詳しくは書かないと思うのです。
また、イエスを狙う祭司長や律法学者たちが大勢いる場所、神殿境内で大勢の人の前でイエスが預言されたのです。
その預言が嘘であるならば、福音書執筆時にはそのことを目撃した人たちもまだ多く生き残っていたでしょうから、その中にはイエスを殺そうとしている人たちも含まれていますからすぐにばれてしまいます。
ましてやキリスト者を迫害する、敵対する勢力が多い時代ですからなおさらです。
そうであれば、福音書の権威とか神の子イエスをうんぬんどころではありません。
第一聖書には聖書に記載されたことの真偽をとやかく言っている個所はありません。聖書はその中身が正しいことを前提に書かれています。
« 目を覚ましていなさい(マルコ13章) | トップページ | 終末の徴(マルコ13章) »
「共観福音書を読む」カテゴリの記事
- 弟子たちに現れる(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(2)(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(1)(ルカ24章)(2018.07.21)
- ヘロデから尋問される(ルカ23章)(2018.07.19)
- 財布と袋と剣(ルカ22章)(2018.07.19)
コメント