大きな苦難を予告する(マルコ13章)
この箇所は、イエスの神殿の崩壊預言の中の一つです。
聖書箇所は、マルコの福音書13章14節から23節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書24章15節から28節、ルカの福音書21章20節から24節です。
●14節.「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
福音書は、もちろん、読者を想定して書かれているでしょう。
それでは、このマルコの福音書の読者はどのような状況に生きている人たちでしょうか。
前にも書きましたが、マルコの福音書が書かれた時代は、ユダヤ戦争終結の前後、紀元70年ぐらいとみられています。
四福音書のなかでも最も早く書かれたそうです。
その時代は、パレスチナの地はユダヤ戦争の渦中にあって騒然としていたことでしょう。
戦争は66年に始まるのですが、その前後にエルサレム教会はエリサレムから既に脱出したということです。
脱出先はヨルダン川東岸のペラと言う町だそうです。
エルサレムに向かって進撃してくるローマの軍勢が神殿を汚し破壊することはもはや阻止できないであろうことを、エルサレム教会はイエスの預言で知っていたでしょう。
本家本元を名乗るエルサレム教会は、本来エルサレムを捨てることなどとても考えられなかったでしょうが、イエスの預言があったから脱出したと思います。
ルカの福音書との違いを見てみると、マルコの福音書はユダヤ戦争の真っただ中ですが、ルカの福音書が書かれた時代はユダヤ戦争が終わって数十年後ですからユダヤ戦争は過去のことです。
だから、「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」(20節)というように客観的に表現しています。
マルコの福音書は「・・憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら・・」(14節)というように預言のように謎めいた表現で抽象的に書いています。
もちろん、憎むべきものとはローマ軍のことであり、異邦人であるローマ軍がエルサレムを侵略すると言うことでしょう。
マルコの福音書13章
●15節.屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。
●16節.畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
●17節.それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
●18節.このことが冬に起こらないように、祈りなさい。
14節から18節をまとめると、その時が来たら、畑にいる時は必要でなかった防寒用の上着を取りに家に戻らないで、畑からすぐ山地に逃れなさい。
そんな時に身重である女とか乳を飲ませている女は(おそらく迅速に行動できないから)不幸だと言うほかはない。
もしそれが冬に起こると、大雨のために谷を渡れなくなり、飢えをしのぐ食べ物を山野に見つけることができなくなるので、逃避行は困難で悲惨なものとなるであろう。
どうせ避けられない事態ならば、せめて冬に起こらないように神のあわれみを祈り求めなさいということでしょう。
●19節.それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。
エルサレム陥落と神殿破壊にともなう神の民の苦難は、創造の初めから、すなわち、歴史の初めから今までにないような最大でかつ最後の患難といえるだろうということでしょう。
●20節.主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。
●21節.そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。
●22節.偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。
●23節.だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」
20節の「主は御自分のものとして選んだ人たちのために」というのはイスラエルの民を指しているのでしょうが、やがてやってくる艱難、世界の終末、キリストの再臨を待ち望むこの時代を生きる(イスラエルも同じですが)選ばれた民であるキリストの民全体にも当てはまるものであったのです。
マルコはそういうことも視野に入れてこの個所を書いているのでしょう。
22節の「偽メシアや偽預言者」は、この時代の共同体の抱えている最大の問題と言えます。
いわゆる「反キリスト」、すなわちイエスをメシアとしない人々が現われて、キリスト教徒を惑わし本来のキリスト信仰から脱落する者がいたのでしょう。
第二テサロニケ2章の「不法の者」の個所で警告しており、第一ヨハネの手紙2章の「反キリスト」の個所にもそういう問題があったことを語っています。
なお、「反キリスト」は、キリストに反抗して信徒を迫害するだけでなく、自分がキリストであると僭称して自分に対する信仰を要求する「偽キリスト」という意味も含んでいるということです。
だから、ここの21節と22節の警告は、キリスト共同体にとっても身近なことで、マルコは真剣に語っていると思います。
なお、ユダヤ人信徒に向かって書いているマタイの福音書の並行個所は、この艱難が、「預言者ダニエルの言った」という言葉を入れて旧約聖書の預言の成就であるとしています。
また、マタイの福音書は紀元70年のエルサレム滅亡以降に書かれているので、すでに預言が成就して過去のことであるのにもかかわらず、この個所を詳しく残しているのは、やはり、キリスト共同体にとっても他人事ではなかったからでしょう。
ルカの福音書は異邦人に向かって書いているのですが、書かれた時期もマタイと同じくエルサレム滅亡という預言の成就を知った上で書いています。
しかし、このエルサレム陥落にともなうユダヤ人の苦難が、終わりの日に世界が受ける苦難であって、その後すぐにキリストの再臨があるとはもはや考えられなくなった時代に書いていると思うのです。
だから内容的に短くエルサレムの苦難の預言のみ簡潔に書いていると思うのです。
エルサレムの滅亡は、すなわちユダヤ人の離散はキリスト再臨の前の全世界的な終末の艱難ではなく、かたくなに不信仰を続けてきたユダヤ人に対する神の報復の日、神の怒りが下った出来事であるとしているのでしょう。
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