過越しの食事をする(マルコ14章)
聖書箇所は、マルコの福音書14章12節から22節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章17節から25節/ルカの福音書22章7節から14節・21節から23節です。
●12節.除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
●13節.そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
●14節.その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
●15節.すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
●16節.弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
●17節.夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
過越の祭りは、夕暮れから始まります。
夕暮れに小羊をほふって、その晩に食事を取ります。
ユダヤ人の暦は、日没から日没までが一日なので、祭りは、次の日の日没までになります。
マルコの福音書によれば、イエスは過越しの食事の翌日の九時ごろに十字架につけられ、午後三時ごろに息絶えて死なれます。
過越しの食事は、単なる食事ではなく儀式です。
食事は一定の手順に従って、パンを裂きぶどう酒を飲み、神がイスラエルをエジプトの手から救われたことを祝うのです。
「都へ行きなさい」(13節)の都はエルサレムのことで、食事は、エルサレムの城壁の中で行なうことになっていますので、そのように言われたのでしょう。
イエスはただ「都に行きなさい、・・水がめを運んでいる男に出会う。」としか語っていませんから、都でも広いのにどういうことかなと思います。
そこで、マタイの福音書の並行個所26章18節を見てみますと、「イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。」となっていますから、予めエルサレム市内の支持者の一人と打ち合せがしてあり、その打ち合せに従ってイエスが弟子たちに指示を与えておられるということではないでしょうか。
それでも、「都のあの人」と言えば、その人が誰であるのか弟子に分かるのでしょうか。
都エルサレムには熱心なイエスの支持者いたのでしょう。
13節に「水がめを運んでいる男」とありますが、普通水がめを運ぶのは女の仕事ですからどういうことでしょうか。
15節には,すでに二階に敷物までしかれた広間が用意されている状況を見ると、事前の打ち合せがなされていたことを物語っています。
どちらにしても、福音書著者は細かいところは省略しています。
そして、イエスは目立たないように「夕方になって」(17節)から(この場合は日没後に)、十二人と一緒にその家に行かれました。
●18節.一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
●19節.弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
「一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」の一緒に食事をするのは、信頼する親しい仲間ですから、その仲間の一人がイエスを裏切ろうとしているのです。
弟子たちはそのイエスの言葉を聞いて、自分たちのうちの誰であろうかと詮索を始めます。
弟子たちはそんなバカなことはないと思ったでしょうが、師であるイエスの言葉ですから、気になるのは当然です。
●20節.イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
食事のパンはイースト菌が入っていないので、クラッカーのようであるということです。
どのようにして食べるのかを調べてみると、柔らかくするためにりんごをすったものにナッツを混ぜて、それに浸して食べるそうです。
「十二人のうちの一人」ですから単数形ですが、誰であるかは名指しはされませんでした。
もし、一同の前でイエスが裏切り者を名指してしまえば、彼はもはや後戻りできなくなってしまいます。
イエスは最後の瞬間までユダに悔い改めの場を残されたと考えるべきでしょう。
イエスは裏切り者が誰であるかを知っておられるのですが、それを席上では特定しないで、そのように親しい者の中から裏切り者が出ることを、深い悲しみの表情をもって語り出されます。
●21節.人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
●22節.一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
21節の「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。」の聖書とは、この時代新約聖書はなかったのですから、旧約聖書(旧約聖書の律法と預言書)のことで、旧約聖書全体が救済者つまり人の子の受難を預言していると言うことでしょう。
イエスの死が聖書の預言であれば、ユダの裏切りも神の定めの中の出来事である、つまり人類救済のご計画の担い手ですから、ユダもその責任を免れるように思いますが、そうではなく、ユダは裏切ることによってせっかくつながっていたイエス(神)との関わりをみずから断ち切ったことにもなりますので、ユダにとっては不幸な出来事と言えます。
「生まれなかったほうが、その者のためによかった」、というイエスの言葉は、そのことを指しているのでしょう。
ユダの動機が何であれ主を引き渡した責任を問われる立場に陥ったことには間違いがないと思います。
しかしわたしは、イエスの無限の愛を思うとき、また三度までイエスを否定したペトロが赦されたことを思うとき、ユダもやがては許されるものと信じています。
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