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2018年4月18日 (水)

いちじくの木の教訓(マルコ13章)

今回はイエスの神殿の崩壊預言の中の「いちじくの木の教訓」を読みます。

聖書個所はマルコの福音書13章28節から31節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書24章32節から35節、ルカの福音書21章29節から33節です。

イエスの終末預言は、「エルサレム神殿崩壊」の予言、「人の子の顕現」の預言をもってクライマックスに達します。

ここではその時に備える心構えを語られます。

パレスチナは冬にも葉を落とさない木が多いということです。

パレスチナと呼ばれる地域は、イスラエルとパレスチナ自治区、ヨルダンのうち東部の砂漠地域以外、レバノンとシリアの一部を指すということです。

いわゆる、紀元前15世紀ごろにイスラエルの民が神から賜ったカナンの地を指しているのでしょう。

その冬にも葉を落さない木の中で、いちじくの木は数少ない冬には葉を落し、夏には収穫を前に裸の枝に葉が繁り、季節の移り変わりがはっきりとわかる木だということです。

その様な木ですから、季節の変化、つまり、いちじくの木の変化を、時を知るための教訓の材料に用いられたのでしょう。

●28節.「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。

いちじくの木に新しい葉が出てきたら夏が近いことは、誰にでもわかる当たり前のことです。

なぜ、このことが教訓になるのか不思議に思い調べてみると、それは、パレスチナでは冬の雨期の後にすぐに夏がくるのでそのことを考慮して考えなければならないと言うことです。

つまり、周りの状況はまだ冬の様相を見せているのに、その中でいちじくの木の枝がいち早く若葉を出し始めるのです。

それは夏の様相のない所でいち早く暖かい夏が近いことを示すしるしともなるのです。

言おうとすることは、いちじくの木に若葉が伸び始めたら、今はまだ目には見えないし肌で感じないが、夏は確実に近づいていると言うことでしょう。

まあ、日本で言うところの冬の寒さの中で咲き始める梅の花と言うところでしょうか。

●29節.それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。

「これらのこと」というのは、「イエスの終末預言」のところに書かれているキリストが再臨されるまでに起こるべきことで、マルコの福音書13章の副題が「神殿の崩壊を予告する」個所に書かれてあることでしょう。

その個所で預言された様々な苦難が起こるのを見たならば、それは神の栄光の顕現、キリストの再臨、つまり、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」ということでしょうね。

世界中に艱難が深まり、もう、世も終わりと思えるような様相を見せた時、その暗闇の背後で神の支配は確実に近付いていると悟りなさい。

神の栄光は世界がその様な様相を見せた時に突如現れるものであるということではないでしょうか。

このようにいちじくの木から新芽が出て若葉が成長するのをみてこれから起こるべきことを悟るのは、「時のしるし」とも言えます。

ルカの福音書12章54節から56節の「時を見分ける」と言う副題の個所に、「空や地の模様を 見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」というイエスの言葉があります。

この「今の時」というのは、イエスがこの世に来られたと言う事実と、イエスの地上での働きとか出来事の全体が時のしるしとしてされているのでしょう。

●30節.はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。

「はっきり言っておく」と言うのは、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」という意味で、イエスが重大な発言をされるときに枕詞に用いられます。

この30節の意味は、イエスと共に生きている今の世代の者が「人の子の顕現」をも含めて終末に起こるべき出来事をすべて体験することになる、と断言しておられるのです。

「この時代は」というと、今すぐにでも「人の子の再臨」がありそうですが、それは、イエスの言葉が神の言葉ですから、神の言葉は必ず起こることであって、起こることに時間的な隔たりはないのでそのような表現になったのでしょう。

イエスはご自分の十字架の受難と復活、聖霊の降臨、その後に起こる「人の子の降臨」は神がなされることですから必ず起こるべきことです。

また、それらのことは、時間の中を生きる我々には時系列的に起こることですが、必ず起こるべきことですから、神の目から見ればすでに起こったものと同じです。 

時間的な考えがなく必ず起こることだから、この世代の者たちが生きている間に来ると断言されたのだと思います。

だから今を生きるわたしたちも「この時代の者」に入るわけです。

時間の外におられる神には出来事のすべては今のことですが、わたしたち時間の中に生きる者には出来事に時間的な隔たりがあります。

●31節.天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

前節でイエスが語られたことが、確かに起こることを保証する言葉だと思います。

同じような言葉に、ルカの福音書16章17節にこのようなイエスの言葉があります。

「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」

この箇所の「律法」とは、モーセ律法と預言の書ではないかと思います。

当時はまだ今のような旧約聖書は完成していませんでした。もちろん新約聖書もありません。

モーセ律法と預言の書は神の言葉で、また、イエスの言葉も神の言葉ですから、確実に起こるので、両方とも永遠に有効だと言っているのでしょう。

言い換えれば、そのことがイエスの予言の言葉を確証することになるのです。

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