イエスを殺す計略(マルコ14章)
聖書箇所は、マルコの福音書14章1節から2節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章1節から5節、ルカの福音書22章1節から2節です。
いよいよこの14章からイエスの「受難物語」が始まります。
イエスの「受難物語」は、イエスの復活と並んで必ず語り伝えられる伝承です。
マルコは、十字架にかけられて、辱められて苦しむイエスの中に栄光のキリストを見ています。
なぜ栄光かと言いますと、それは、イエスの出来事が神の人類救済のご計画の成就であるからです。
イエスの十字架の意味はメシアの秘密でしたが、この受難物語においてその秘密が明らかにされます。
並行個所マタイの福音書の26章1節の「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。」。
26章2節の「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」という言葉でこの受難物語を書き始めています。
この二つの節のイエスの言葉は、ご自分の受難予告が過越の成就であることを、イエスご自身によって宣言されていることになります。
●1節.さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
「過越と除酵の祭」は、七週の祭と仮庵の祭と並んで、当時のユダヤ教の三大祝祭の一つで、春に始まる一年の最初の月であるニサンの月(われわれの現行暦では三月から四月にあたるそうです)に行われました。
この祭には、異邦の地に散らばっているユダヤ人がエルサレムの神殿に巡礼する為に集まってきました。
イエスも祭りに参加する為に数回エルサレムに巡礼のために上られたと言うことですが、マルコは、イエスの最後のエルサレム行きだけを取り上げます。
イエスの受難を語るのに、イエスが何度エルサレムに巡礼されたかは必要ありません。
この時のユダヤ教指導者たちのイエスに対する殺意は、もはや最高潮に達していたことでしょう。
イエスは律法を守れないということで、罪人とされ社会から疎外された取税人や遊女たちと交わり、彼らに「貧しい者たちは幸いである。神の国はあなたがたのものである」と宣言されました。
これは、律法を遵守することを誇りとしてきた律法学者たちの立場を完全に無視する行為でした。
そのイエスが、彼らの勢力圏の中心であるエルサレムにやってきたのです。
イエスは、このエルサレムでユダヤ教が最も神聖な場所とする神殿内で暴力を振るい、神殿の崩壊を予言するようなことも言っています。
そのようなイエスを祭司長たちや律法学者たちは、なんとかしてエルサレムにいる間に逮捕して殺さなければならないと、殺意をもって捕える機会を狙っていたことでしょう。
しかし、イエスは民衆に人気があったので、うかつには手を出せません。
怖いのは民衆の暴動でした。
暴動が起これば、ローマ帝国ににらまれてどのような処罰が降るかわかりませんからね。
●2節.彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
祭司長たちや律法学者たちは、よほど民衆の暴動が怖かったのでしょう。
「祭りの間はやめておこう」なんて言っていますが、結局、イエスは過越の祭りの最中に十字架の上で殺されることになるのです。
やはり、神のご計画で、神の御子キリストは、過越の祭りの日に、殺されなければならなかったのだと考えます。
イエスがエルサレムを去る前に、すなわち、祭の期間中に捕らえなければならなかった。
しかし、祭の行事の中では周囲に群衆がいるから、「民衆が騒動を起こす」ことを心配しなければならない。
そこで「ひそかに」、すなわち祭の群衆に気づかれることなく、計略を用いてイエスを捕らえて殺そうとしたのです。
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