フォト
2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

カテゴリー

« 復活についての問答(マルコ12章) | トップページ | 律法学者が非難する(マルコ12章) »

2018年4月 5日 (木)

ダビデの子についての問答(マルコ12章)

聖書箇所は、マルコの福音書12章35節から37節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書22章41節から46節、ルカの福音書20章41節から44節です。

35節.イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。

神殿の境内ですから律法学者らの監視の目が光っている場所でということです。

イエスは律法学者たちが『メシアはダビデの子だ』と言っているのはなぜかとおそらくイエスの教えを聞いていた群衆に問われます。

キリストはヘブル語でメシヤと言いますが、意味は、「油注がれた者」(聖別された者)ということです。

●36節.ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

ここは詩篇110編1節の【ダビデの詩。賛歌。】で、「わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」」とある箇所のことを言っておられるのでしょう。

イエスはダビデが聖霊を受けて語ったとされている言葉が、霊感による父なる主の言葉であることを認めておられます。

問題はダビデが「わが主に賜った主の御言葉」と言っていますので、「わが主」とそのわが主に賜った主ですから、主が二つ出てくることです。

おそらく、最初の主が父なる神で、二つ目の「わたしの右の座に就くがよい。」と言われた主がイエス・キリストだと思います。

だから、旧約聖書における「主」は、ダビデが主の言葉を賜った主ですから、イエス・キリストだということになります。

ユダヤ教の方には大いに異論があると思いますが、いかがでしょうか。

そして、父なる神がキリストに言われた言葉は、「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵を・・・足台と・・・」です。

律法学者らは、この二つ目の主が今目の前におられるキリストであることを理解しなかったのです。

●37節.このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

36節に書いたようにダビデ自身がキリストを「わたしの主」と呼んでいるのに、そのキリストがなぜダビデの子になるのか、ということです。

ダビデが「主」と呼んでいるメシアがダビデの子と言うことになりますからおかしいのです。

そこをイエスは突かれたのです。

ユダヤ教の律法学者らもやがてこられるメシアはダビデの子(子孫)からだと主張してきましたから、そもそもユダヤ教の律法学者らのメシア観に矛盾があったと言うことになります。

ですから、ダビデがメシアを主と呼んでいる詩編の聖句は矛盾に陥るではないか、という反論です。

その矛盾は、そもそもユダヤ教の律法学者らが、いま目の前にいるイエスを復活された主(キリスト)とは認めないからダビデのいう「主」はどこにいるのかと言うことになるのですが、律法学者らはイエスを主と認めていないからそれには答えられないので詰まってしまったのです。

「大勢の群集は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。」というのは、群衆は、イエスがいつも偉そうにしている宗教家たちの矛盾を突いて、やりこめたのをみて喜んだと言うことでしょう。

「ダビデの子」であるイエスが同時に「主」であることによって、詩編110編の父なる神の霊感を受けてダビデが告白した預言的な言葉も成就することになると言うことだと思います。

書き出しでマルコの福音書は「イエスはこう言われた。」という句で始めていますが、マタイの福音書は、「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった」という言葉で始めています。

マタイはわざわざ「ファリサイ派の人々が集まっていたとき」と特定の団体の名を入れているのは、マタイはユダヤ教側のメシア理解が間違っていることを突こうとして、攻撃的になったのでしょう。

律法学者らが陥った矛盾に対して、マタイはイエスの言葉で、「メシアは誰の子か」という問いに、「メシアは、人としてはダビデの子であるが、復活によって神の子とされた方である」と答えたのです。

マタイはイエスの復活を信じて初めてこの詩編の言葉が成就すると主張しているのです。

キリストはダビデの主であり、なおかつダビデの子(子孫であるヨセフの子)ですから、キリストは神でありかつ人なのです。

しかし、マリアはイエスを聖霊によって身ごもったとしていますから、遺伝子的にはイエスはダビデの子孫にならないのです。

マタイがイエスはダビデの子と強く主張するのは、マタイはユダヤ人に福音を告知するために、イエスがメシアであることを強調して説得しょうとしているのでしょう。

だから、イエスがダビデの家系から出た方であることを示すことが不可欠であったのでしょう。

ただし、イエスがダビデの血族的な子孫であるか否かは、キリスト信仰に何ら影響はありません。

« 復活についての問答(マルコ12章) | トップページ | 律法学者が非難する(マルコ12章) »

共観福音書を読む」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ダビデの子についての問答(マルコ12章):

« 復活についての問答(マルコ12章) | トップページ | 律法学者が非難する(マルコ12章) »