フォト
2024年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

« 枯れたいちじくの木の教訓(マルコ11章) | トップページ | 権威についての問答(マルコ11章) »

2018年4月 1日 (日)

神殿から商人を追い出す(マルコ11章)

聖書箇所は、マルコの福音書11章15節から19節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書21章12節から17節/ルカの福音書19章45節から48節です。

●15節.それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。

ユダヤ教の神殿はイスラエルの象徴です。

神殿の境内では、参拝に来る人々のために犠牲の動物を売っている商人、普通の貨幣を神殿に納めることができる通貨に両替する商人がいて、売買が行われていました。

神殿に入られたイエスは、境内で売り買いする商人を追い出し、両替の台をひっくり返すなど手荒な行動をされました。

何があったのでしょうか、このようなイエスの暴力行為に等しい行動はほかの聖書の箇所にはありません。

イエスの怒りがいかに激しいものであったかを示しています。

●16節.また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。

「境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。」というのが、どのような状況を指すのかよくわからないので解説を見てみますと、水を運ぶ容器など生活や商売のための器物をもって、近道をするために神殿の庭を通り抜けようとする者を追い返された、ということではないかということです。

そして、ここは「神殿から商人を追い出す」のがイエスの目的でなく、宮を清められたということではないかと言うことです。

宮の中では、商人と祭司の利権が働いていたでしょう。

商人たちは独占的な利権を利用して、ささげ物に使う動物がべらぼうな値段で売っていたのでしょう。

宮で用いることのできる貨幣に両替するとき、ものすごく高い通貨レートが敷かれていたでしょう。

神の名を借りて、礼拝する人々の心を利用し、一部の人々が利益をむさぼる行為を見てイエスは、そのような行為は神を冒涜することだとしてこのような激しい行動に出られたのでしょう。

●17節.そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。

「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」というのは、旧約聖書イザヤ書56章7節にあります。

「あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった」の強盗の巣というのは、神殿で売り買いする商人だけでなく、その背後にあって彼らの商売を支配していて、利潤を吸い上げて私腹を肥している貴族的祭司階級を指す言葉でしょう。

本来祈りの家であるべき宮が、民衆を収奪する拠点になっていると弾劾されているのでしょう。

このように大衆の中で公然と非難するイエスを、神殿を拠り所としている祭司階級が憎むのは当然で、イエスの言葉が真実を付いているからなおさらです。

●18節.祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。

群衆に人気のあるイエスを恐れたこともありますが、群衆は、祭司階級に巣くう悪い慣習を、悪く言えば神の名をかたって私腹を肥やす手段としていることをよく知っていたので後ろめたさもあったのでしょう。

イエスは「祭司長たちや律法学者たち」を強盗(17節)と呼ばれました。

本来祭祀の仕事は、人々を神にとりなすのが仕事です。

いわゆる人々のために奉仕するのが仕事だと思うのですが、彼らは群衆が自分たちのために奉仕(私腹を肥やす)する手助けをするのを神に期待していたと言えます。

これはまさしく、神の名を借りて、神を利用して私腹を肥やしていたということです。

彼らは、群衆があっての自分たちであることはよく知っていたでしょう。

その群衆が、イエスの教えに感嘆していたので、彼らは(群衆が自分たちから離れるという意味で)イエスを恐れたといえます。

しかしそういうことよりも、彼らがイエスを殺さなければならないと考えたのは、やはり、イエスの言動に神殿の存立そのものを否定し、ひいては神殿を根拠づけている律法そのものを否定する面があったからではないでしょうか。

だから、祭司階級だけでなく、律法学者たちもイエスを放置することはできなかったのでしょう。

それではこのイエスの言動は、はたして神殿の粛清でしょうか。

この個所はイエスの「宮清め」とか「神殿粛清」と呼ばれています。

しかし、「神殿粛清」のためにイエスがこのようなことをされるとは思えません。

神殿を、悪徳商人を粛清しても、根本的な解決にはならず、何の意味もありません。前にも書きましたが、イエスは警察官ではありません。

むしろ、そういう神殿はもういらなくなるのです。

イエスがこの世に来られたのは、全人類の罪の贖いのために生贄の子羊として十字架にかけられるためであったのです。

神殿がいらなくなるというのは、イエスが十字架で死ぬことにより、神の御霊、聖霊が代わりに降られ、イエスの言葉を信じる者一人ひとりに内住される、すなわち、神のおられる神殿はイエスの言葉を信じる人々のうちにおられるようになるのですから、もう、人間が作った神殿も罪の贖いのための動物の生贄も必要がなくなるからです。
イエスの十字架死は永遠の、全人類の贖いの生贄なのです。

また、マルコの福音書13章2節で、神殿崩壊を予告されていますので、いずれ崩壊する神殿を清める必要もないでしょう。

「粛清」と言うのは、堕落した部分を改革して、本来の姿を取り戻すことですからね。

そうすると、神殿で鞭をふるわれたのは、神殿を「粛清」するためではなく、神の裁きによる神殿、ついてはイスラエルの「壊滅」を預言するための象徴行為であったと理解すべきだと思います。

« 枯れたいちじくの木の教訓(マルコ11章) | トップページ | 権威についての問答(マルコ11章) »

共観福音書を読む」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。聖書を読み始めて、「いちじくの木の呪い」「神殿から商人を追い出す」、自分にとって「?」だったので拝読させていただきました。ニュアンスがじんわりと伝わりました。ありがとうございます。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 神殿から商人を追い出す(マルコ11章):

« 枯れたいちじくの木の教訓(マルコ11章) | トップページ | 権威についての問答(マルコ11章) »