律法学者が非難する(マルコ12章)
聖書箇所は、マルコの福音書12章38節から40節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書23章1節から36節、ルカの福音書20章45節から47節です。
●38節.イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
「律法学者に気をつけなさい。」というイエスの言葉は、弟子たちに注意を促していると言うよりも、律法学者らの偽善的な行いをたとえにして弟子たちの日頃の行いを注意しておられるのでしょう。
律法学者に対するイエスの厳しい言葉ですが、マルコの福音書の表現はこのようにごく短くて簡潔ですが、並行するマタイの福音書23章では詳しく書かれています。
マタイの福音書が詳しいのは、マタイの福音書はユダヤ人信徒ひいてはイスラエルの人々に書かれているというところに原因があるのでしょう。
「彼らは、長い衣を着て歩き回り・・」の「長い衣」の意味を調べてみると、それは律法学者の身分をあらわす衣で、長くゆるやかにたれているということです。
これを着て歩いていると、誰の目にもすぐに律法学者であることが分かるので、一般の人々から「ラビ(先生)」、つまり、神に自己をささげている者として特別の敬意をこめた挨拶を受けることになります。
彼らのこのような姿は、神の栄光を自分の栄光にしているのです。同時にそうすることによって受ける人々からの尊敬のまなざしを自負しているのです。
「先生」という呼称はそのことを典型的に表しています。
現在でも、わたしたちがその様な立場になれば、幾ら敬虔な人物でも長い年月先生などと呼ばれていれば、自分は特別な存在だと思うようになり、奢りたくもなるものです。
人間は誰でも弱い者で、くれぐれも気をつけねばいけないことだと思います。
しかし、神の言葉を告知する者がなぜ先生なのでしょうか、わたしにはわかりません。
●39節.会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
「会堂では上席・・」とありますが、この会堂とあるのは、ユダヤ人の宗教生活と社会生活全般の中心になるシナゴーグ(教会堂)のことですが、「上席」というのを調べてみると、聖書が納められている聖櫃前方の長椅子で、会衆に向き合って座る場所ではないかということです。
宴会があれば「上座」に座って、その地域社会で重要な特別の人物として扱われることを当然とする律法学者の態度を指しておられるのでしょう。
●40節.また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
「やもめの家を食い物にし」というのは、当時の律法学者の生活は、調べてみると教団側から決まった手当をもらっているのではなく、ユダヤ人たちの献金によって賄われていたと言うことです。
ここは、信仰によりなされる献金を悪用して、つまり、本来は神に仕える者として質素な生活を心がけるべきだと思うのですが、彼らは群衆の信仰心に付け込んで金儲けをしていたのです。
明日の食事がどうなるかわからないような、やもめの家からも献金という名でお金を巻き上げて、見栄のための長い祈りをしていたのでしょう。
それをイエスは断罪されたのです。
この時代、いや現在もそうですが通常やもめの家は経済的に貧しい人々です。
現在の教会の献金のありかたにも通じるところがあると思います。
このようにやもめで代表される貧しい者、弱い者に「背負いきれない重荷を負わせ」てその人たちを見下げている律法学者がいたのでしょう。
全部とは言いませんが中には自分の立場を利用して、そういう弱い者の家から強欲に献金を求めていたのかも知れません。
「見せ掛けの長い祈りをする」というのは、彼らが自分たちが信仰に熱心であるように見せかけるために長い祈りをしたのでしょう。
祈りが長ければ偉い宗教者(律法を厳格に守る信心深い者)だと見られるから、長い祈りをしたのでしょう。
祈りの長さと信心深い宗教者とはイコールではないのですが、一般的にはその様にみられるところもあると思います。
律法学者は自分が偉くありたい、その様に認めてほしいと、そればかりを願っていますが、実際は神が求めておられる最も大切なへりくだった魂とか慈愛の心からは遠く、そういう彼らをイエスは「偽善者」といわれました。
注目すべきは、ここでイエスは律法学者の偽善を攻撃されていますが、彼らの教義そのものは批判されていません。
それは、運用方法は間違っていても、神が定めた律法を守ると言う教義は批判されなかったということですから、当たり前です。
マタイの福音書の並行個所の23章2節から3節に「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」とあります。
イエスは、律法の教義を否定するのではなく、それを成就完成させる為に来られたのです(マタイの福音書5章17節)。
その成就完成させる力は、人間の努力(つまり仏教などで言う修行)とか知恵ではなく神の御霊、聖霊の力です。
聖霊の力の働きは神に敵対するサタンが支配するこの世の力によって妨害を受けますので、それに惑わされないように「気をつけなさい」と呼びかけておられます。
マタイの福音書の並行個所である23章2節の「・・モーセの座に着いている」というのが分からなかったので調べてみますと、律法学者たちは現実の場面に適用して実行するために、聖書に書かれている律法を解釈し、それを弟子から弟子に教え伝えましたが、その口頭で伝承された聖書解釈の伝承が「口伝律法」と呼ばれていました。
その口伝律法も聖書に書かれている成文律法と同じ権威があるとさていました。
フワリサイ派は、「口伝律法」を権威づけるために、その伝承はモーセにまで遡るとしていたそうです。
それで、律法学者たちは、「モーセの座に着いている」とされたということです。
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