主の晩餐(2)(マルコ14章)
聖書箇所は、マルコの福音書14章22節から26節の23節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章26節から30節、ルカの福音書22章15節から20節です。
長いので投稿文は二回に分け、この投稿文は二本目です。
●23節「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。」
ルカの福音書の並行個所では「互いに回して飲みなさい」と言っておられます。そこで問題になるのですが、解説によると、この箇所を直訳すると、
「これを取り、あなたたち自身の間で分配せよ」となるということですから、パンと同じように杯もイエス自身は飲まずに弟子たちだけに飲ませたと解釈できます。
イエスが飲むと、ご自分の血にたとえたブドウ酒をご自分が飲むということになります。
それよりもこの言葉の意味を考えると、それを弟子たちに与えるだけで、ご自分は食べたり飲まれたりすることはなかったとするほうがしっくりします。
わたしはそのように思っています。
●24節「そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
イエスは、杯もパンと同じように(ルカ22の20)イエスは飲むことなく弟子たちに飲まされました。
それらの行為は「わたしの血による新しい契約である。」と言われました。
この契約の背景には、旧約聖書出エジプト記24章のシナイにおける契約締結の記事と予言者エレミアが語った新しい契約、エレミア書31章31節から34節の予言があるのでしょう。
出エジプト記の古い契約は、神がモーセによってイスラエルの民に与えられた契約です。
イスラエルの民は、神への不従順によりその契約を破りましたので無効となりました。
神はそのために預言者エレミアによって、終わりの日にその古い契約とは別の新しい契約が結ばれることを預言しました。
この新しい契約は、もはや古くなることのない最終的な一度きりの契約となります。
聖書が言う契約は神の人に対する約束です。
その契約は、結婚関係のような、約束事に基づいた深い関係にたとえられています。
わたしたち人間と人間の契約は、普通、双方の当事者の合意によって結ばれますが、神との契約は、神が人間の同意を得ずに、単独で作られた契約です。
ですから、神から与えられた契約(約束)を人間が受け入れるか拒絶するかの問題になります。
創造主と被造物との契約ですから、対等でないのは当たり前です。
契約と言っても被造物は創造主に対し相応の何もできません。
創造主と被造物の契約ですから、そういう形になるのはやむをえません。
神はわたしの創造の計画に沿って歩み、わたしと共に生きる道を選択するか、あくまで離反したまま死に向かって歩むかどちらかを選択しなさいといわれているのです。
神が一方的に決められた契約ですが、その契約に対してわたしたちは何の文句も言えません。
もちろん、神も、ご自分が結ばれた契約は破棄することはできません。
一度約束したら必ず守られる神ですから、神はその契約を受け入れた者には、契約内容はどんなことがあっても必ず実行されます。
イスラエルでは、過越の食事の際子羊を屠るのですが、ヨハネの福音書によると、まさに、イエスはご自分を過越しの子羊として差し出されたことが明確になります。
「これはわたしの体、わたしの血である。」というのは、まさにそのことを指していると思うのです。
ヨハネの福音書では、過越しの準備の日に神殿で過越しの子羊が屠られているときに、エルサレム郊外のゴルゴダでイエスは十字架につけられて、血を流されていたのですから、そういうことでしょう。
なお、共観福音書では、最後の食事は過越の祭りの除酵祭の日(15日)ですが、ヨハネの福音書は、過越の祭りの準備の日(14日)となっていますので、十字架の日が準備の日となるのです。
どちらが正かということですが、末尾に書いた理由で、わたしはヨハネの福音書の記載が正しいと思っています。
●25節「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
イエスは、「地上であなたがたと一緒に食事をするのはこれが最後だ」と言っておられます。
これは、イエスの死が目前に迫っていることを宣言する言葉です。
イエスがこのように語られるのは、神の国(神の支配と同義)の到来が決まっていて目前に迫っているということでしょう。
イエスの中にすでに神の国は到来しているのですが、この人間社会に神の支配の到来をもたらすためには、ご自分の死が決定的な意味を持つことをご存じで、そのうえでこの食事の席でこのように語っておられるのです。
もちろん、パンも杯もご自分は食べたり飲んだりしないで弟子たちに分配されました。
このことを、わたしはイエスの十字架への準備ととらえます。地上での弟子たちとの交わりはこの晩餐で終わります。
ルカ福音書22章15節から16節にはこの個所はもっと詳しく書かれています。
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは節に願っていた。言っておくが、神の国で過越しが成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越しの食事をとることはない」です。
イエスは過越しの食事をしたいと「切に願っていた」と言われています。
苦しみを受ける前に、すなわち逮捕され十字架にかけられる前です。
その時は、いつ逮捕されるかわからない危険な状況にあるときですから、かねてからこの過越しの食事の機会を実現したいとの強い願いを持っておられたのでしょう。
ご自分の十字架の意味を、また、弟子たちに言い遺しておくことを語るためにです。
神の国でともに食事をとる日(完全な交わりが成就する)まで、この時からイエスは過越の羊を食べることをしないと宣言されます。
この意味は、死が間近に迫っていることを(弟子たちはまだ疑心暗鬼でしょうが。)イエスはご存知ですから、この過越しの食事はご自分にとってこれが最後だと言っておられるのでしょう。
●26節「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」
当時ユダヤでは過越の食事の後には旧約聖書詩編115~118編のハレルヤ詩編の後半が歌われることになっていたということですから、歌われた賛美の歌はそのハレル詩編のことでしょう。
イエスも、かねてからの希望であった弟子たちとの晩餐会の機会を持つことができて、伝えることも伝え、死に臨む準備も整えられて、最後にこのハレルヤ詩編を歌って食事を終え、市街を出てキデロンの谷を通り、オリーヴ山に向かって行かれたのでしょう。
イエスは、苦難の前にこの地上でやるべきことをすべて終えられました。
イエス一行はその夜預言された場所であるエルサレムにとどまられました(申命記16章6から7節参照)。
エルサレムは祭司長たち権力者の支配下にありますから、権力を行使するのに容易な場所です。
イエスはご自分が逮捕されることを覚悟しておられたと思います。
弟子のひとりである裏切り者のユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところに走っていることをイエスは知っておられるのですから、もしイエスが逮捕を免れようとするならば、夜陰にまぎれて遠くへ逃げることも可能であったはずです。
それは神の定めから逃げようとされないイエスの覚悟を示す行為であったと思います。
なお、最後の晩餐の日について、共観福音書とヨハネの福音書が違っていますので、聖書学者がいろいろと説を述べられていますが、
わたしは、共観福音書は、口伝伝承を集めて構成されたものであるのに対し、ヨハネの福音書は、イエスに最も身近にいた著者個人(十字架の時ほかの弟子は故郷へ逃げ帰りましたが、この著者は十字架の場にいたと思っています。それはこの著者はまだ年少であったので逮捕される恐れがなかったと思うからです。)が、
自分が目撃したことをそのまま書いた記事(ヨハネの福音書第21章24節)ですから、歴史的事実としてはヨハネの福音書を信じたいと思います。
また、共観福音書は最後の晩餐をユダヤ教の過越しの食事として取り上げていますが、ヨハネ福音書は最後の食事を「過越しの準備の日」になされた通常の食事としています。
パウロも過越しの食事であったとは書いていませんから、やはりヨハネの福音書を信じたいと思います。
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