やもめの献金(マルコ12章)
聖書箇所は、マルコの福音書12章41節から44節です。
共観福音書の並行個所は、ルカの福音書21章1節から4節です。
この箇所は教会で献金を勧めるときによく取り上げられる聖句です。
●41節.イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
●42節.ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
●43節.イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
●44節.皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
41節の、「大勢の金持ちがたくさん入れていた。」というのは、金持ちは有り余った中から他者に見せびらかすようにして他人よりも多く献金しているということでしょう。
そこに「一人の貧しいやもめが来て、・・」(42節)の「やもめ」とは、夫を失った女のことですが、当時のイスラエルは男権社会ですから女は夫を失うと帰るべきところがなく、男の子がいない場合はやもめの社会的地位は非常に低いものでした。
やもめは、当時の貧しい階級の代表的な存在で、日々の暮らしにも困っていたことでしょう。
この個所の貧しいやもめの行為をイエスは高く評価していますから、表面だけを見れば、貧しくとも献金はすべきものと受け取れますが、マルコの福音書12章40節の「また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」というイエスの言葉がありますので、矛盾します。
しかし、よく考えると、この物語の場所は神殿の境内です。
つまり、ユダヤ教指導者の目が光っている場所だと言うことです。
その上で、調べてみると「賽銭箱」というのは、日本の神社の前にあるような四角い木箱ではなく、ラッパ形の容器であって、神殿の「女子の庭」に十三個が置かれていたそうです。
神殿に詣でる人々は、この容器に献金のおかねを投げ入れるのです。
投げ入れるのですから、詳しい金額はわからなくても金額の多少は誰の目にも明らかになります。
指導者層の監視の目があり、暗黙のプレッシャーが献金をする者に働いたと思います。
42節を読むと、この貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を投げ入れたのです。レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスレプタと説明されています。
一クァドランスレプタというのは、ローマ貨幣の基本単位であり一日分の給料に相当するデナリ銀貨の六四分の一ということですから、その半分のレプトン銅貨は、現在の日本の生活感覚からすれば百円玉ぐらいということです。
レプトン二枚は僅かな金額ですが、その日暮しのやもめにとっては、その日の食べ物を買うための最後の二枚で、生活費の全部であったのかもしれません。
一枚を自分の生活費のためにとっておくこともできたのに、監視の目に押されてか二枚とも投げ入れたと推測できます。
43節のイエスの言葉、「この貧しいやもめは、・・だれよりもたくさん入れた。」を読んでわかることは、神の目には、献金するお金の多少と信仰の深さとは別だということです。
金持ちは、あり余るお金の中から沢山献金して、それを見せびらかして信仰心を誇っているのです。
信仰とは神との関わりの中に生きることですが、このやもめは有り余るお金の中から沢山献金したのではなく、自分の貧しさの中から、生活費の全部ですから、言い換えれば、明日からの生活を神に委ねたのです。
もちろん間違っては困るのですが、何もイエスは明日の生活費も全て捧げるのがよいとは言っておられません。
いわゆる、神との関わり方が問題だと言っておられるのです。
イエスは、このやもめの姿をたとえに信仰の本質を弟子たちに教えられたのでしょう。
44節がそのことを語っています。
話を変えて、それではこのやもめは、これからの生活をどうするのでしょうか。この時代、生活保護制度などないでしょうから、貧しいやもめは、物乞いするか、死ぬしかないのではないでしょうか。考えさせられます。
神殿制度がやもめにこのような行為を暗黙に強制していたのだと思うのです。それは40節の聖句「・・やもめの家を食い物にし」からも推測できます。
こうしてこの個所を読むと、イエスの43節と44節の言葉は、貧しい人々の献金をもって(搾取して)贅沢な生活をしている律法学者ら宗教指導者に対する当てつけのように読めます。
参考個所として、12章40節に「また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」というイエスの言葉がありますので、その様な人は「・・人一倍厳しい裁きを受けることになる。」のです。
従って、イエスは決して貧しい人の生活をも破壊するような献金を褒められたのではないと思うのです。
現在のキリスト教会にも献金に厳しい牧師がおられる教会があると聞きますから、気をつけなければと思います。
本当に神を信じていれば怖くてその様なことはできないと思います。
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