復活についての問答(マルコ12章)
聖書箇所は、マルコの福音書12章18節から27節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書22章23節から33節、ルカの福音書20章27節から40節です。
●18節.復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
神は終わりの日に死者を復活させるという信仰は、旧約聖書の後期からイエスの時代の直前、黙示文学が盛んであった時代に発展したということです。
ユダヤ教ファリサイ派の律法学者は律法解釈に柔軟でしたから、復活信仰と言う新しい信仰を律法の新しい解釈として受け入れましたが、律法解釈に保守的なサドカイ派は、モーセ五書の本文に書かれていること以外は認めようとしなかったので、この新しい復活信仰を拒否していたということです。
彼らはモーセ五書本文だけが神のみ言葉であると信じていましたので、復活や天使や霊などは信じませんでした。
また、そのことを誇りに思っていたようです。
●19節.「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
●20節.ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
●21節.次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
●22節.こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
●23節.復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
彼らサドカイ派の人々は復活を信じていなかったので、モーセ律法の婚姻の規定にこのような疑問を持ったのでしょう。
つまり、死者の復活を認めないサドカイ派の人々が、復活を認めた場合に生じるモーセ律法の矛盾を突いてきたのです。
それは、夫が子を残さないで死んだとき、兄弟がその妻をめとらなければならないという律法(申命記25章5節以下)があるのですが、この規定によって七人の兄弟を次々に夫とした女が亡くなり復活すると、既に死んだ七人の夫も復活しているので、来世で女は七人の男を夫とすることになります。
そうするとそれは同時に複数の妻をもつことを禁じた律法に違反することになります。
復活を認めると、このように律法自体が矛盾に陥るので死者の復活の信仰は成り立たないとサドカイ派の人々は言おうとしているのです。
ファリサイ派の学者はこのような場合は、その女は最初の夫の妻となると解釈していたようです。
サドカイ派の人々は、律法のこのような矛盾を持ち出して、イエスを問い詰め貶めようとしていたのでしょう。
答えられないようであれば、民衆の面前でイエスの権威は失墜します。
もし、矛盾を回避するために律法の規定を否定するような答え方であれば、神が定められたモーセ律法を冒涜する者として訴えることができます。
●24節.イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
直接答えないで、問いのたて方そのものが誤りだと指摘されます。
いつもの通りイエスは、質問者が見当はずれの質問をした場合、「思い違いをしているのではないか」と問い方そのものが間違っているとした上で、「聖書も神の力も知らない」と、彼らが聖書と神の力(神の支配)について思い違いをしていることを指摘されます。
●25節.死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
イエスは、彼らの間違った問いは復活した者たちの世界がこの地上と同じような世界であって、結婚というような制度も同じようにあると考える「思い違い」から出ていることを指摘されます。
復活した人間が集う世界は、神による新しい人間、新しい天地の創造の結果です。
そこでの人間には肉体はなく、天使のように朽ちることのない体をもって生きる存在となっているのですから、肉体を持った死ぬべき体の人間が地上に存続するために必要としている結婚制度は、もはや存在しないしその必要もないのです。
人類存続のための生殖活動は必要ないのです。
だから、「復活にさいして、彼らが復活すると、女は誰の妻になるのでしょうか」という問い自体が成り立たないのです。
●26節.死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
イエスは、彼らが信じているモーセ五書を用いて復活についての教えを話されます。
イエスは彼らの聖書理解の間違いを指摘されたのでしょう。
彼らは律法(モーセ五書)に書かれていないという理由で復活を否定していますが、そういう彼らにイエスはモーセ五書を突きつけて、神が死者を復活させる方であることが明記されているではないかと言われます。
死者の復活が明記さているという「柴の編」というのは、出エジプト記三章で、神がモーセを召される時、燃える柴の中からモーセに呼びかけられた箇所を指しているのですが、燃える柴の中に現れた神はモーセに、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名のっておられます(出エジプト記3章6節)。
ちょっとわかりにくいのですが、説明は次節でします。
死者の復活の信仰はイスラエルの歴史の最後の時期になってようやく成立したものであるとされていますが、その啓示はイスラエルの歴史の最初からすでに与えられていると言っておられるのでしょう。
その隠されていたことがいまイエスによって明らかになったということでしょう。
●27節.神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
神が燃える柴の中からモーセに語りかけた時、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに死んでいました。
もし神が彼らを復活させないで死の中に放置するならば、その神は「死んだ者たちの神」となります。
「生きているものの神」、すなわち、命は神からいただいたもので、神が生命そのものなのです。
だから、神は死んだ者たちの主ではなく、生きている者たちの主なのです。
マタイの福音書22章32節「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」」とある通りです。
その神が『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と名のられる以上、アブラハムら三人は生きて(復活して)いなければならないのです。
死んで復活していないならばそのような表現にはならないのです。
そして、すでに死んだアブラハムが生きているというのは、あくまで体をそなえた命の活動であり、霊魂のみが存在しているということではないのです。
だから、神はモーセに「アブラハムの神」と名のられることによって、ご自身が死者を復活させる者であることを啓示しておられるということになるのです。
彼らは復活した世界にもこの地上の世界と同じように結婚という制度があるとする「思い違い」をしているので、このように言われたのでしょう。
神は新しい天地と新しい人間を創造し、新しい世界を創造されまし。
彼らは、人間を天使のように朽ちることのない存在とされるという「聖書(の約束)も神の力を知らない」からその様なことを言っているのです。
新しく創造された世界では、人間が存続するために結婚というような制度は必要でないのです。
肉体がないのですから生殖活動も不要で当然です。
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