主の晩餐(1)(マルコ14章)
聖書箇所は、マルコの福音書14章22節から26節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章26節から30節、ルカの福音書22章15節から20節です。長いので投稿文は二回に分けます。
この個所は、レオナルド・ダ・ヴィンチ作絵画『最後の晩餐』で有名な個所です。また、クリスチャンにとっても非常に大切な個所だと思います。
マルコの福音書を中心に、一節ずつ読んでいきたいと思いますが、その前に過越祭(除酵祭)について少し書いておきます。
過越祭は、旧約聖書出エジプト記12章にあるように、イスラエル人がエジプトにおいて奴隷として虐げられていたとき、神はみ業を持ってモーセを指導者に選びエジプトから脱出させた出来事を祝うユダヤ教の祭りです。
神はイスラエルの民にエジプト脱出」の際にエジプトからイスラエルの民を守るために、アビブ(ニサン)、つまり1月14日に子羊(または山羊)を屠殺し、その血を取って、子羊を食べる家の2本の柱と鴨居に塗り(出エジプト記12章6節から7節)、その夜15日(日没で日付が変わるので)にその肉を焼き、酵母の入っていないパンと苦菜を添えて食べるように命じられます。
ルカの福音書の該当箇所を少し見てみたいと思います。
●ルカの福音書第22章14節「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。」
過越しの食事は、イスラエルの民が神の導きによりエジプトを脱出したのを記念する行事です。
その脱出が夜でしたので記念する食事も夜にすることになっていたそうです。
「この時刻になったので」というのは、おそらく過越しの食事をする時刻になったので、という意味でしょう。
また、「食事の席に着かれた」という言葉の原語は、卓に寄りかかる、横になるという意味ということです。
過越しの食事のときはそういう姿勢で食事をしたのでしょう。
なお、「使徒たちも一緒だった」と書いていますが、使徒というのはイエス復活後の呼び方ですから、「弟子たち」というのが正解でしょう。
●ルカの福音書第22章15節・16節「イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
「切に願っていた」という言葉は、苦しみ(十字架)を受ける前に、いつ逮捕されるかわからない危険な状況になかでかけがえのない重要な機会(この世でイエスの言葉を弟子に伝える最後の夜)を実現したいという、かねてからのイエスの強い願いであったと思います。
イエスが切に願っていたことが実現しました。そこでイエスは語られます。
それでは、「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」というのはどういう意味でしょうか。
この節の後半の「過越しの食事を取ることはない」とは、おそらくイエスは死が間近に迫っていることを自覚して、地上にいる間において弟子たちと一緒にとる食事は、この過越しの食事が最後だと言っておられるのでしょう。
前半の「神の国で過越が成し遂げられるまで」というのは、終わりの日に神の国(神の支配)が実現して(イエスの十字架により神の支配は到来したがまだ完成していないが)、完成して、成就した過越し(罪の中にある人類に救いのご計画が実現し、完成したとき)を祝う宴席で食事を共にするまでということでしょう。
イエスは神の支配の実現が間近に迫っている、すぐにやってくるご自分の死が神の支配の到来のために決定的な意味を持つことを強く自覚して語っておられます。
イエス自身は再臨の時までキリストの民と食事をとることはないが、キリストの民はその日を忘れないように記念として、パンを裂いて食べ杯を回して飲むことによって主イエスの死の意味(キリストは、わたしたちのために死なれた。その死によって新しい契約が結ばれた。神は、十字架されたキリストによってこの世を罪の中から救われるという福音の告知を指します。まさに人類救済の神のご計画でした。そのことを告げ知らせるのが、まさに福音と言えます。)を主が来られる時まで、つまり主の再臨のときまで語り継いでいくのです。
人類救済という神のご計画は、イエスの十字架により成就したが完成はしていない。完成するのは再び主イエスが来られる時です。
それではマルコの福音書に沿って読んでいきます。
マルコの福音書第14章
●22節「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
この節から25節までのイエスの言葉は、イエスが死に臨んで語られた最後の言葉、いわば遺言だと思いますので、人が死に臨んで語る言葉ですから重く受け取るべきだと思います。
イエスはご自分がこの世に来たことの意義を述べられています。
ルカの福音書と違うところは、パンと杯がテレコになっていますね。
マルコは盃が後でパンが先ですが、ルカは盃が先でパンはあとです。
第一コリント人への手紙11章23節から25節によると食事の後に杯、つまり、ブドウ酒が配られていますのでそれが正解でしょう。
ほふって、焼いた羊を食べ、その後に、半分に割ったパンを持ってきて、それを「裂き弟子たちに与え」られます。
なお、わたしはパンも杯もご自分は食べずに弟子たちに与えられたと思っています。
ご自分の体とか血にたとえたパンとか杯(ブドウ酒)をご自分が食べるというのは分かりにくいので、そのように受け取ります。
イエスは十字架を前に断食しておられたと思うのです。
この当時は、家長がパンを手にとって感謝の祈りをささげて神の賜物として聖別され、それから頂くということです。
イエスはパンを裂いて自分は食べることなく弟子たちに分配されました。
そして、これは「あなたがたのために与えられるわたしの体である」と言われました。
これは、まもなくイエスが受けられる苦難の辱めと十字架刑を指し、まさにそれは、(十字架刑でイエスは手足を釘で打ちつけられて腹を槍で刺しぬかれました)身を裂かれるような出来事です。
イスラエルの過越の祭りは、イスラエルがエジプトでの奴隷で受けた苦しみから過越したお祝いですが、イエスが受けられる苦しみは、ローマ兵から四十九回も鞭を打たれ(鞭うちは数回で気絶してしまう人が出てくるほどだということです。)、もっとも残酷な処刑方法とされる十字架刑で殺されることでした。鞭うちはものすごい痛みが走り、背中の肉が飛び散ります。
これらのことは、この時から何百年も前に旧約聖書のイザヤ書53章5節で予言されていました。
「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」が実現したということです。
イエスは、パンを「取りなさい。これはわたしの体である。」と、いわば神秘な言葉を残されました。
まさのこの言葉がイエスの死の意義を指していると思います。
「わたしの体」はイエスの生涯、存在のすべてを指すのでしょう。
その体を、「あなた方に与える」ですからご自分の受けた苦しみはあなたがたのためであると言われているのでしょう。
ルカの福音書22章19節では、「・・これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」とあり、「わたしの記念としてこれを行いなさい」と言っておられます。
つまり、イエスの死が自分たちのための死であることを、わたしが死んだ後も思い起こすためのものとしてこれを行いなさい、と言っておられます。
(主の晩餐(2))に続きます。
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