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2018年4月 1日 (日)

「ぶどう園の農夫」のたとえ(マルコ12章)

聖書箇所は、マルコの福音書12章1節から12節です。

共観福音書の並行個所はルカの福音書20章9節から19節/マタイの福音書21章33節から46節です。

●1節.イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

「たとえで彼らに・・」の彼らとは、12節に「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを」と書いてあるので、「祭司長たちや律法学者たち」のことでしょう。長老も入るのでしょう。

その彼らはイエスに殺意を抱いている人々です。

イエスはその彼らに彼らもよく知っているイザヤ書5章の「ぶどう畑の歌」を用いてこのたとえ話で彼らのご自分に対する殺意と、その意味を明らかにしょうとしておられるのではないでしょうか。

それでは、「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て・・」と言うのはどういうことでしょうか。

イザヤ書の「ぶどう畑の歌」の表現から推測すると、「やぐら」というのは見張り用の塔のことになります。

そして、「ぶどう畑の歌」の畑は、イスラエルを象徴していると思いますから、イスラエルの民そのものの主に対する態度が問題とされていると思います。

2節以降を読むと、マルコではぶどう園で働く小作人の態度が問題とされています。

何れにしてもこのぶどう園のたとえ話がイザヤ書を用いて表現されていますので、ぶどう園は神の民イスラエルを指し、主人は神を指し、農夫たちはイスラエルの民の指導者、すなわち、「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」と言えます。

したがって、このたとえ話はイスラエルの命運にかかわるたとえ話だと思います。

●2節.収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。

●3節.だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。

●4節.そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。

●5節.更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。

●6節.まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。

●7節.農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

●8節.そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。

2節の「収穫を受け取るために、僕を・・送った。」の僕(しもべ)たちとは、神からイスラエルに遣わされた預言者たちのことで、最後に送られた「愛する息子」とは神の独り子イエスのことでしょう。

まとめてみると、このたとえ話は神から遣わされた預言者たちを迫害して殺し、この終わりの日に遣わされた「神の子」イエスをも殺そうとしているイスラエルの指導者たちの命運を語るたとえ話として理解することができます。

なお、各福音書により、ぶどう園に主人(神)が送られた僕(預言者)は、農夫たちに「袋だたき」(3節)、「頭を殴り、侮辱」(4節)、「ある者は殴られ、ある者は殺された。」(5節)、など表現が少しずつ違いますが、それは福音書著者が参考にした共同体に伝わる伝承の違いから来ているのだと思います。

イエスは、このたとえ話によって、イスラエルの民の指導者である「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」がイエスに対して抱いている殺意が何を意味するのかを明らかにされています。

つまり、その指導者たちがしょうとすることは、6節から8節にあるように、ただ一人の跡取りである息子(神の子イエス)を殺すことによって財産を自分のものにしようとした農夫たちの非道と同じことだと言われているのです。

ちょっと、ここで引っかかるのは、ただ一人の相続人である息子を殺せばなぜ財産は他人である農夫の物になるのだろうかということです。

調べてみると、当時の法律制度では所有者のない土地は最初に占有した者の財産になると言うことです。

したがって、農夫たちがただ一人の跡取り息子を殺せば、そのぶどう園は所有者のない土地になってしまいますから農夫たちは財産が自分たちのものになると考えたのかもしれません。

したがってこのたとえ話は、まったくの作り話でもないようです。

神への反逆という人間の罪が、神から遣わされた「神の子イエス」を殺すという究極の形で明らかになったのです。
さて、神にたとえられているこのぶどう園の持ち主はこの事態をどうするのでしょうか。それは次節です。

●9節.さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。

ここでイエスは彼らに問いかけています。

そしてイエスは、「戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」と答えられます。

この「ほかの人たち」と言うのは、イスラエルの人たち以外ですから、異邦の民を指すのでしょう(マタイの福音書21章43節)。

この答えの文の動詞はみな未来形ということなので、そのことは未来に起こることで、それは彼らの罪、すなわち、「息子を捕まえて殺し」(8節)ですから、神が最後に遣わされた神の子イエスを彼らが殺すのですが、そのことによって彼らは裁きを受けて滅ぶのは必然であると言っておられるのでしょう。

つまり、イエスがご自分が殺されることとイスラエルが滅びることをここで預言されたということです。

この裁きの預言は、イエスの十字架死と、やがて彼らの拠り所である神殿がローマ軍によって壊滅(紀元70年に実現)させられるという形で実現します。

そして、イスラエルは国を失い民は世界中に離散することになります。

彼ら、つまり、「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」は滅ぼされてぶどう園は他の者、異邦の民(ユダヤ人以外の民族)に与えられます。

イエスを殺したのは結局イスラエルであり、そのことによって神の民としてのイスラエルの歴史はやがて終ります。

そして、イスラエルに代わって異邦諸国民(イエスの言葉を信じる者の共同体、あるいは教会)が神の国を受け継ぐことになると予告されているのです。

イスラエルに対する裁きは、いちじくの木を枯らし、神殿で鞭を振るうという二つの象徴行為によって予告されましたが、最後には神殿の壊滅を予言する明白な言葉で語られることになります。

なお、ルカの福音書の並行個所20章16節にはこのような聖句があります。民衆(ユダヤ人)はイエスのたとえ話の意味を理解していたのか、「そんなことがあってはなりません」と言っています。

神の民でありユダヤ人である民衆にとって、自分たちが神の民から追い出されて異邦人が神の民として迎え入れられるというようなことは考えられないことであったのでしょう。

●10節.聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。

●11節.これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」

さて、10節の「家を建てる者の捨てた石・・」とは詩編118編22節・23節から来ているのでしょう。

こ聖句を初代教会は、イスラエルが殺して投げ捨てたイエスが、復活によって新しい神の民の土台とされることの根拠したのです。

イエス・キリストは、神の家、つまりキリスト者の集まりである教会(共同体)が建てられるときに、絶対に必要な礎の石、かなめ石です。

なお、ルカの福音書の並行個所で20章18節にマルコの福音書にはない聖句があります。

それは、「・・その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」です。

ここのその石というのは、イスラエルが捨てたのを神が堅く据えられた土台石ですから、その石に向かって敵対し襲いかかる者は誰でも自分の方が打ち砕かれるという意味でしょう。

「その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」というのは、その石が行動するとき、だれも抵抗することはできず押し潰されることを語っているのでしょう。

この個所もダニエル書(2章34節、44節から45節から来ているのでしょう。

●12節.彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

彼らは、このたとえ話が自分たちのことを指していると気が付いたので、怒りイエスを捕らえようとしましたが、群衆を恐れてその場を立ち去りました。

こうして、イエスと律法学者たちとの対立は決定的となります。

彼らはもはやイエスを殺す他はないとして、すぐにもイエスを逮捕して殺そうとしますが、イエスを支持する民衆のいるところでは騒乱になるので、それもできません。

ローマの支配下で騒乱を起こすと、律法学者らの立場そのものが危うくなるのでしょう。

それで、民衆のいないときに「秘かに」イエスを捕らえて処刑する策略をめぐらし、実行にとりかかります(ルカの福音書22章1節から2節)。

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