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2018年4月 1日 (日)

権威についての問答(マルコ11章)

聖書箇所は、マルコの福音書11章27節から33節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書21章23節から27節/ルカの福音書20章1節から8節です。

●27節.一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、

イエスがメシア到来を求める群衆の熱狂的な歓迎を受けてエルサレムに入られて最初になされたことは、マルコの福音書11章15節・16節にあるように暴力的な神殿粛清行為でした。

これにより、祭司長たちや律法学者たちのイエスに対する殺意は一気に高まります。イエスを殺そうとする謀議が進むことになります。

そのような危険な状態にあるのにイエスはあえて神殿に入って行かれます。

イエスはご自分の時が迫っていることをご存じで、覚悟の上でのエルサレム入りであり神殿入りであったのでしょう。

イエスが神殿の境内に入られると、早速、祭司長、律法学者、長老たちがやってきます。

イスラエルの歴史(旧約聖書の歴史)を成就するためにイエスはこの世にやってこられました。

そのがために、誤った道を歩むユダヤ教の象徴ともいうべき神殿と対決することになるのは必然でした。

「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」の三つのグループはイスラエル国家の最高法院(サンヘドリン)を構成するグループです。

このグループが「イエスの権威を問題にした」(28節)ということは、ユダヤ教を代表する最高法院がここでイエスと対決していることを意味することになります。

●28節.言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

長老たちがイエスに「何の権威でこのようなことをしているのか」と言いました。

イスラエル国家の最高法院を代表する者が、イエスの権威とその権威がどこからのものかを問題にしています。

ということは、闇に自分たちに権威があると言っているのと同じことになります。

自分たちに神殿を思いのまま支配する権威があるという強い思いが、彼らにあったのです。

さらに「誰がそうする権威を与えたのか」と詰め寄ります。

「そうする」というのは、直接にはイエスの神殿粛清の行為を指していると思います。

しかし、この個所がユダヤ教最高法院とイエスの最後の論戦と見るならば、イエスの宣教活動そのものを問題にしているとも言えます。

神殿は象徴的に神のおられるとことですから、そこに神の権威があります。

その神殿を支配しているのは彼らです。

●29節.イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。

●30節.ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」

イエスは、「一つだけ尋ねるから、・・」と言ってヨハネの洗礼(マルコの福音書1章1節以降ほか)は天からのものか、それとも、人からのものか。答えなさいと質問します。

イエスはいつも的外れな質問に対しては、前提となる立場の違いを突いて彼らの詰問を無力にしてしまいます。

彼らは、洗礼者ヨハネに対する群衆の人気を恐れて(群衆は、洗礼者ヨハネは天からのものと思っていたので、)答えに窮してしまいます。

ヨハネの洗礼が天からのものといえば、洗礼者ヨハネは神の権威をもった預言者であることを示すことになり、人からのものと言えば、洗礼者ヨハネは自分の思いを話しているに過ぎないということになります。

イエスはご自分の権威の出所を明らかにするために、洗礼者ヨハネの権威を持ち出して、ご自分の権威がヨハネの権威と同じところから出ていることを明らかにしょうとされたのでしょう。

つまり、洗礼者ヨハネの洗礼は天からのもので、洗礼者ヨハネはイエスをキリストであることを宣言して、イエスの到来の前ぶれの働きをしたということです。

したがって、彼らが洗礼者ヨハネに対して下す結論は、イエスにも当てはまることになるということでしょう。

当時ヨハネの洗礼とイエスの関係は、一般的にそういう認識があったのでしょう。

●31節.彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
「彼らは論じあった」というのは、おそらく彼らは洗礼者ヨハネの洗礼を神から出たものと認めていなかったのでしょう。

しかし、彼らは民衆の前で洗礼者ヨハネの洗礼を天のものでないと公言することはできませんでした。

その理由は「彼らは群衆を恐れていた」(32節)からだということでしょう。ということは、群衆は洗礼者ヨハネを神からの者と信じていて、大変人気があったということです。次節にそのことが書かれています。

●32節.しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。

群衆は洗礼者ヨハネの洗礼を神からのものと信じていたので、自分たちが「人からのもの」と公言すれば、群衆の激しい反発を受けることになるので怖かったのでしょう。

●33節.そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

彼らは「分からない」と答えました。

これは本当に分からないのではなく、洗礼者ヨハネの洗礼を「天から」のものと信じていなかったのですが、信じていないと言えば民衆の反発が怖いので、信じていないことを公言できなかったから、そのような中途半端な回答になったのでしょう。

もちろん、自分のプライドを守るためでもあるわけです。

このような彼らの態度そのものが、彼らの権威が自分たちの立場から出たものである、すなわち、「人から」のものであることを明らかにしていると言えるのではないでしょうか。

「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」とイエスは言われました。

イエスの権威は、ヨハネの権威と同じく、直接神から与えられた権威です。

彼らはそのようなあやふやな答えしかできませんでした。

人間的な答えしかできない彼らにイエスはご自分の権威について語ることを拒否されます。次元の違う問いにまともに答える必要はありません。

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