目を覚ましていなさい(マルコ13章)
聖書箇所は、マルコの福音書13章32節から37節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書24章36節から44節/ルカの福音書12章39節から40節、17章26節から30節、34節から35節です。
●32節.「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」、
「その日、その時」というのは、終わりの日の裁きの時に、キリストは再び来られる(人の子の顕現)と約束されていますので、その日のことを言っているのでしょう。
「天使たちも子も知らない。」というのは、その日は天使もイエスの知らないのです。父なる神だけがご存じなのです。
イエスは神の子として、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」(マタイの福音書11章27節)と言っておられますが、「その日、その時」はご存じではなかったのでしょう。
しかし、父なる神以外には誰も知らないのですから、現在までにも多くの世の終末を語る預言者といいますか霊能力者が現れていますが、その方たちが語る世の終わりの日の預言はすべて真実ではないということになります。
したがって、終末のドラマについてのいかなる黙示録の中の時間表もいつのことかわからないということです。
●33節.気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
その時がいつ来るか分からないからこそ、いつ来てもよいように、いつも目を覚ましていなければならない。
そのことが34節以降の旅に出る主人と召使のたとえで語られます。
「目を覚ましていなさい」と言うのは、まさしく、イエスのみ言葉を何時も心に留めて、つまり、わたしの言葉を信じてあなたの人生を歩みなさいと言うことでしょう。
「その時がいつなのか、あなた方には分からない」と言われていますが、なぜ誰も知ることができないのでしょうか。
しかしよく考えると、もし、キリスト再臨の日を知ることができたら、わたしたちはそのときまでに準備していればいいから、まだ時間はあるのでそれまでの間は遊んでいよう、ということになると思うのです。
そうすると、きっと、新しい人間の創造と言う神のご計画に支障が出るのでしょう。
いつか分からなければ、いつその日が来てもよいように準備ができていなければならなくなります。
で、イエスは次のたとえをされます。
●34節.それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕(しもべ)を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
●35節.だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
この「旅に出る主人と召使の譬たとえ話」も、弟子たちに「目を覚ましているように」と警告することが目的でしょう。
「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。」(34節)ということは,僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように言われているが、僕たちには目を覚ましているようにとは命じられていません。
しかし、僕たちには主人の留守のあいだ与えられた権限を用いて課せられた仕事を忠実に果たすことが求められています。
わざわざ目を覚ませということもないということでしょうか。
ルカの福音書12章35節から48節の婚礼に出かけた主人を待つ僕の話である「目を覚ましている僕」のたとえ話とよく似ています。
当時の婚礼の宴は、いつ終わるか分からないので帰宅は夜になるのが当然であり、その時間も見当がつかないのが普通だそうです。
夜でも「夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か」(35節)と四つに区分されているのは、当時のローマの夜の見張りの交替の時間区分に従ったものだそうです。
こういう事情から、主人が夜のどの時間帯に帰宅しても門を開いて迎えることができるように、とくに「門番には目を覚ましているように」(34節)命じられているのは当然です。
●36節.主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
目をさましていることの反対が眠っていることですから、眠っているというのは、神の言葉から離れて、あるいは忘れて人生を送っていることでしょう。
●37節.あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。
終わりの日の裁きのためにキリストが再び来られることの預言は、初めは僅かの弟子たちだけにひそかに語り出されたものでした。
しかしここでは、そのことはすべての人が聞き、心に留めなければならないことであることが強調されています。
「人の子の顕現」が実現する終末は、イエスの弟子たちだけに関わるものではなく、全世界いや過去・現在・未来の全人類が直面しなければならない終末です。
それゆえ、ここの「目を覚ましていなさい」という警告は、弟子たちだけではなく世界のすべての人、すべての時代に向けられたものとなります。
イエス・キリストを信じる者たちは、再び来られる主をいつも待ち望み、主に仕えていくべきで、イエスをまだ救い主として受け入れていない人は、み言葉に出会い、招きがあれば今すぐ受け入れるべきであるということでしょう。
それは主が来られるのは、いつかわからないからだということでしょう。
なお、マタイの福音書の並行個所24章36節から44節で、
マタイは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」という言葉の後に、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだ」という句を置いて、ノアの洪水を例として「目を覚ましているように」という訓戒を語っています。
ルカの福音書の並行個所では、ノアの場合だけでなくロトの場合も取り上げられていますが、マタイはロトの話には触れていません。
また、マタイは24章40節から41節で「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」という言葉を置いています。
これは、外見ではまったく同じように生活していても、終わりの日に対して備えができている者とできていない者では、突如やって来るその日に神からまったく別の扱いを受けることになることを言おうとしているのでしょう。
いつも「主よ、主よ」と言っている者でも、その日には置いていかれる者もあるということです。
人間の目でみればみ言葉に忠実な、信仰に熱い人でも、神の目で見れば違うと言うこともあるということです。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイの福音書7章21節)とある通りです。
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