汚れた霊に取りつかれた子をいやす(2)
(1)からの続きです。
聖書箇所は、マルコの福音書第9章20節から29節です。
●20節.人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
悪霊は同じ霊界の存在としてイエスを知っています。だから悪霊はイエスの前でこれ見よがしに自分の力を見せつけます。
●21節.イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
ここでイエスは、父親に、「・・いつごろからか」と聞かれています。
これはどういう意味でしょうか。
それに、22節には父親が「おできになるなら」と言っていますから、父親はもしかしたら、イエスの力でも癒せないと思っていたのかもしれません。
おそらくイエスは、悪霊の悪質の程度を知るためにこのような質問をされたのだと思います。
●22節.霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
●23節.イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
父親の「おできになるなら」と言う言葉は、ある意味、人間である信仰者あるいは霊能者が癒しのみ業を行うならばその言葉は正しいのだと思います。
祈って癒される場合もあれば癒されない場合もあるからです。
この父親は、イエスを普通の人間で優れた霊能者と見ていたのでこのような言葉になったのでしょう。
父親は、イエスを終わりの日にこられた神の子だとは見ていなかったのです。
イエスに来ている事態は「人間にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコの福音書第10章27節)と言われる事態です。
霊能力者とは次元が違うのです。
●24節.その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
この父親は、息子の病は人間の能力ではどうすることもできないということをよく知っています。
もはやイエスにたよるほかに道はない。だから、慌てて「信じます。・・・」という切羽詰った叫びになったのでしょう。
同時に、「信仰のないわたしをお助けください」と叫ばないではおれなかったのでしょう。
逆に言えば、そういう信仰がわたしたちに求められている信仰なのだと思うのです。
神の助けを求めてすべてを委ねてしまう人間の姿こそ、まことの信仰に到るただ一つの道といえるのではないでしょうか。
でもね、わたしたち自己中心にしか生きられない人間は、なかなか自己を捨て神に自己を委ねる生きかたはできません。
神を信じることは知っていても、信じきることはできません。
普通、信仰というと、人間の努力、つまり、神に対する誠意とか忠実さなどであると理解しているところがあると思います(神道も仏教もどちらかといえば行いの宗教です。)。
そのような信仰は、「信じる者は何でもできる」という次元の信仰の前では、生ぬるい信仰といえるのではないでしょうか。
信仰は人間の努力とか能力の結果、つまり宗教儀式とか修行なのではなく神の賜物です。
●25節.イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
ここで用いられている「霊」は単数形ということです。
とりついている「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、」は、人間に取り付けるのは汚れた人間の霊だけだと思いますから汚れた霊で、単数なのでしょう。
イエスはここで「わたしの命令だ」と言われています、命令で言うことを聞かせようとするのは、権力と権威の行使です。
そうです、霊界でのイエスの権力と権威の現れです。
「二度と、この子の中に入るな。」は、悪霊はイエスの命令で出て行きましたが、出ていけばあとは空っぽですからまた戻ってきて入ることができますので、このように命令されたのでしょう。
霊は拒否することもなく素直にイエスの命令に従ったのです。
そうです、イエスには勝てないことが分かっていたからでしょう。
●26節.すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
イエスが霊に出て行けと命令されると、子供が引きつけを起こして死んだようになりました。
イエスが汚れた霊を叱りつけられたとき、「霊は叫び声をあげ、ひどくひきつけさせて出て行った」のです。
霊がとりつく場合、その悪質の程度はいろいろとあると思うのですが、この子の場合は、永年霊にとりつかれた状態が続き、霊に支配された状態がその子の人間性そのものを狂わせてしまっていたのでしょう。
そのような霊を追い出すには強烈な力が必要であり、霊が追い出された人は、魂を抜かれた人間のように、死んだのと同じ状態になるのでしょう。
●27節.しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
死んだのと同じ状態から、イエスはその子を生き返させます。この節の、「起こす」とか「立ち上がる」という用語は、イエスの復活について用いられている用語と同じだということですから、この出来事は、イエスに来ている神の支配を体現するイエスの権威によって、悪霊の支配から神に支配になり、人間が解放されるという福音を告知しているのでしょう。
●28節.イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
弟子たちは、「なぜ、わたしたちは・・・」ですから弟子たちにも霊を追い出す力があったのでしょう。
でも今回はできなかった、いや、弟子たちの手に負えなかったのです。
●29節.イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
「この種のもの」とは、この子の場合のように、永年人間に深く取り付いていて、その人の人間性そのものを変えてしまっている、それほど悪質な霊が取りついた場合と言うことでしょう。
人間の信仰や霊能者の力にも限界があることをあらわしているのでしょう。
そのときには、神が働いてくださるのでなければ不可能なのでしょう。
祈りは人間が神の力に頼るための手段です。癒しの力はわたしたちを造られた神がおもちで、わたしたちにあるのではないのです。
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