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2018年3月 5日 (月)

イエスの姿が変わる(マルコ9章)

聖書箇所は、マルコの福音書9章2~13節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書17章1~13節/ルカの福音書9章28~36節 です。

二回に分けまして、この投稿文は「イエスの姿が変わる」として、マルコの福音書9章8節までを、9章9節以降を「メシヤの秘密」として別に投稿します。

マルコの福音書第9章
●2節.六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、

「六日の後、」というのは、何時から六日かといえば、おそらく「仮庵の祭になって六日後」と思われます。

なぜ六日後かと言いますと、5節でペトロが「小屋を三つ建てましょう」と言っていますので、そこから推測するとその様になるのです。

仮庵の祭りというのはユダヤの三大祭りの中で秋の収穫期に行なわれる最後で最大の祭りで、その祭りにはユダヤの各地から巡礼者がエルサレムに上って来て、木の枝で造った仮小屋に七日間住んで神殿の祭儀に参加するそうです。

これはイスラエルがエジプトから救い出されて荒野で幕屋に住んだことを記念するものだということです(旧約聖書レビ記23章39節から43節)。

「高い山に登られた」の「高い山」はヘルモン山系の中の比較的高い一つの山であろうと言われています。

主な弟子三人のみを連れて山に入られたのは人を避けて祈りに没入するためであったのでしょう。

その祈りは、ルカの福音書9章31節に「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」とあるように、十字架で殺されるエルサレムへの旅に出発するに際し、神の子としての苦難の使命を確認する祈りであったと思います。

ゲッセマネ(マタイの福音書第26節から36節ほか)の時と同じく、この時も最も信頼する三人の弟子を伴われました。

三人の弟子を伴ったのは、後日のために、イエスの「人の子」(9節)としての栄光を目撃する証人とするためでありましょう。

すでにイエスの中では受難への準備が始まっていたのでしょうね。

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」の「変わった」というギリシャ語は、さなぎが蝶に変わるときの「変態」という言葉と同じものだそうです。

●3節.服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の・・」とは、言い換えれば栄光の姿。それは、この世には存在しないような光輝く姿でしょう。

ある本の中で、「栄光とは、創造主から供給されるエネルギーの発するものです。」と説明されていました。

わたしにはそれがどのような姿であるのか想像もつきません。

人間は経験もないことは想像すらできない。

神は万能です。あらゆる力、知恵、正義、憐み、無償の愛などあらゆる良いものは神がもたらされたものですから、それらが輝くところに栄光があるのではないでしょうか。イエスがこの栄光で輝いておられました。

フィリピの信徒への手紙第3章21節に次のように書かれています。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」

「白い衣」はイエスが天上の世界に属する方であることを示し、その衣の輝きは「人の子」の栄光を指し示しているのでしょう。

この姿は、いわば地上の姿の背後に隠されているイエスの本当の姿で、それがいま一瞬ではあるが地上の人間の前に輝き出たということでしょうか。

●4節.エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

「エリヤがモーセとともに現われて」とありますが、旧約聖書では二人とも神の言葉を預かった預言者です。

モーセを通して律法はイスラエルの民に与えられ、エリヤは預言者の代表です。旧約聖書の神の言葉はこの律法と預言者が預かった言葉によって構成されています。

そして、この二人がイエスとともに語り合ったという出来事は、旧約聖書がイエス・キリストを証言していたことを意味しているということになると思います。

ヨハネの福音書第5章39節の「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ」とある通りです。

預言者エリヤは終りの日が来る直前に再来すると期待されていました。その聖句は次のとおりです。

旧約聖書マラキ書3章23節「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす

同24節「彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。」

その預言者エリヤが現われたことで、このイエスの変容が終わりの日(主の日が来る前)の出来事であることも意義づけられています。

それから、終わりの日にはモーセ律法の回復が約束されていますので、モーセが一緒に現われたのでしょう。

ルカの福音書第9章31節によると、二人が話していた内容は、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」となっています。

イエスの最期とは、もちろん、十字架上の死と復活の出来事ということになります。

ルカはこのようにモーセとエリヤの出現を、「律法と預言者」の全体がイエスの十字架と復活を終末における神の救済の業であると証している、と意味づけていると思います。

●5節.ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

旧約聖書時代の偉大な人物、既に亡くなっている天上の人物三人の出現に、地上の三人の弟子たちは興奮し驚き怯えました。

異次元の未知の存在に出会った人間はおびえるものです。

三人の弟子は言葉も出ない状態だったと思います。

そのときのペトロが思わず発した言葉がこの言葉です。

これは事実あったことでしょう。作り話ではこのような表現にはなりません。

仮庵祭の日は、イスラエルの民族的回復の希望が熱く燃え上がる時期でもありました。

気が動転したペトロが思わずそのように場違い的な言葉を発したのでしょう。

●6節.ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

ペトロは人間が異次元の存在に出会ったときにもつ恐れのため、足もすくんでいたでしょう。

ルカの福音書では、5節のペトロが発した言葉は、「自分でも何を言っているのか分からない」と、場違いで見当はずれの言葉であったとしています。

●7節.すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
雲の中から声がしたのは、父なる神ご自身の声だと思います。

雲は神の臨在のしるしです。

それは旧約聖書で神の臨在を表現するときによく出てくる場面だからです。

次の通りです。参照箇所は、出エジプト記13章21節、同24章16節です。

雲に覆われた神の臨在の場では、きっと、弟子たちには何も見えなかったでしょう。神が語られる言葉だけが聞こえるのですね。「これはわたしの愛する子、これに聞け」、と。

神は弟子に向かってイエスのことを「わが愛する子」と言っておられますから、イエスは神の子だと言うことです。

三人の弟子はこの出来事を証言するためにこの場に呼ばれたのですね。

「これに聞け」のこれはイエスを指しているのでしょう。

神は弟子たちにイエスに聞けと言われたのでしょう。

ただし、この聞けと言われた弟子は、キリストにあるものすべてが含まれるでしょう。

このナザレの人イエスに聞き、その言葉に従うことが、神に従うことになる。マルコは福音書でもって未来の世界にこの一言を言いたかったのでしょう。

●8節.急いで辺りを見回したがもはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

突然、雲も栄光も三人の弟子の前から消えました。もとの情景が戻ってきました。弟子たちの側にはいつものイエスがたっておられました。

イエスの変容の出来事は三人の弟子の体験を通して、イエスを信じるものすべてに、いや、世界の人々全てにイエスが神の子であると語りかけているのでしょう。

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