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2018年3月19日 (月)

子供を祝福する(マルコ10章)

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第19章13節から15節/ルカの福音書第18章15節から17節です。

マルコの福音書第10章。
●13節.イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。

イエスは病人や病気の箇所に触れて病気を癒されました。

それで病気に苦しむ人々は今や癒しの奇跡で有名となっていたイエスが来られたと聞き、イエスに触ろう、触れたら病気が癒されると思って集まってきたのでしょう。

親はいろいろなところに子供を連れて行って、病気を治そうと努力したのでしょう。

それでも子供の病気は癒されなかった。藁にもすがりたいその気持ちはよくわかります。

イエスに触れば病が癒されると信じていたのです。

ということは、人々はイエスが神の子で、イエスとの接触によって神の力が注がれると信じたということです。

「人々」の中には、子供の親も入っているのでしょう。子供の病のために親が必死になるのはよくわかります。

「弟子たちは、この人々を叱った」のですが、なぜ弟子たちがこのような親の行為をとがめたのでしょうか。

よくわかりません。

弟子たちはイエスがエルサレムに入られ今の指導者層を滅ぼして、「神の支配」(ただし、自分たちのための)が実現すると信じていましたので、自分たちもその大いなる出来事に加わって大きな働きをするのだと、高揚した気分でいましたから、そのようなところに、目先の小さなこと、子供の病を癒すなどは大事の前の小事で、自分たちの大いなる事業の邪魔になるだけだと考えたのでしょうか。

それとも、今やイエスは、大先生だから、あなたたちのような人間をいちいち相手にしていたらキリがない。だから、失礼になるからといって叱ったのでしょか。

●14節.しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

イエスはそのような弟子の態度に憤りを見せられました。

イエスが憤られるときは、自分への悪に対してではなく、「小さい者」、「弱い者」が疎外され、苦しめられるのを見られるときです。

イエスは弟子たちに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われました。

「神の国はこのような者たちのものである」というのは、子供のように純粋で無垢な者というのは、子供は純粋で無垢とは限らないので、子供のように自分で何もできない者、親の助けがなければ生きてはいけない弱い者、間違った知識を持たない無力な者を象徴しているのだと思います。

そして、「神の国」とか「神の支配」は、弟子たちが考えているような、偉大な者たちの偉大な働きによって形成される偉大な王国ではなく、このような「小さい者」、「貧しい者」たちの中に成就する神の働きであり、神の恩恵の支配ですから、イエスが見ておられる「神の国」と弟子たちが期待している「神の国」とは正反対にあります。

この段階では、弟子たちは本当のイエスの姿がまだよくわかっていなかったのです。

●15節.はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

「神の国」とは、何も来世を待つのではなく、神が働いて支配しておられる場ですから、今目の前に到来している、神の恩恵によって人間世界に降られた神の御霊、聖霊が働かれている場です。それは現実なのです。

その現実を受け入れるのには、何ら条件はありません。

それは、だれもが自己の能力とか努力を自慢することがないためです。

そのような神の国ですから、他者に自慢できる(この世で価値のある)何かを持っている人はついついそういうことに頼りますから、新しい教えをなかなか受け入れるのはむつかしいのです。

神の国と地上の世界の価値観は全く正反対ですからね。

子供は、間違った知識を持たない、好奇心は旺盛、頼るべき何も持たないので、新しい教えを受け入れるのを邪魔するものがないのです。

ですから、素直に新しい教えを受け入れることができるのです。

イエスは、そのように子供のように神の国を受け入れる者でなければ、「神の国」に入っていくことは決してできないと言われています。

●16節.そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

この「祝福」とは、もともと「よいことを話す」という意味ということなので、イエスは、来る子どもひとりひとりに、神が愛しておられること、神が良くしてくださること、神が子供の人生に希望の計画を持っておられることなどを話されたのでしょう。

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