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2018年3月23日 (金)

ヤコブとヨハネの願い(マルコ10章)

聖書箇所は、マルコの福音書第10章35節から45節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書第20章20節から28節です。

●35節.ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」

●36節.イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、

●37節.二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

イエスはエルサレムへの旅の途上で三度もご自分の受難を予告をされたのですが、そこに奥義が秘められていることを理解せず、自分たちが考えているメシアとしてのイエスに期待をかけていました。

彼らのメシアは、神の力により異教徒(ローマ帝国)の支配を打ち破り、自分たちはメシアイエスと共に神の民として復活したエルサレムを支配する栄光の座につくはずであったのです。

だから、その時には自分たち二人がメシアであるイエスの右と左、つまり、栄光の座に座らせてくださいと願ったのです。

この旅の途上で弟子たちは、誰がいちばん偉いかと論じあったりしているところを見ると(マルコの福音書9章33節から37節)、彼らは最後までイエスの受難予告の奥義を理解できなかったと思われます。

人の上に立ちたいという願いは、人間の本性ですから、戒めだけでは変わらないでしょうが、それよりイエスは今このようなことを言っても弟子たちが理解していないのはよくご存知でしょうから、それでもその時のために語っておかれる必要があったのだと思います。

神の奥義は聖霊の働きがなければ理解できないものだということでしょう。

それまで隠しておかれたとも書いてあります(ルカの福音書9章45節)。

なお、マタイの福音書の並行箇所は、ゼベダイの息子たちの母親がイエスに、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるように」(マタイの福音書20章20節から21節)と、親がイエスに頼んでいることになっています。

イエス一行の最後のエルサレムへの旅には、ガリラヤから女性たちもついて来たと思いますが、その中にはゼベダイの子らの母親もいたのでしょう(マタイの福音書27章55節から56節)。

しかし、親バカでもあるまいし、これはどういうことでしょうか。この福音書が書かれたのは、イエスの十字架以降20年以上の月日がたっているのですよ。

マタイの福音書を書いた共同体が二人の弟子の尊厳を傷つけないために、母親が願いをしたことにしたのでしょうか。

しかし、こういうところがあるから、聖書が事実を語っていると思えるのです。

●38節.イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

●39節.彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。

マタイの福音書には、38節の洗礼の象徴は省略されています。

イエスと栄光を共にするためには、イエスの苦難をも共に受けなければならない。そしてその苦難がどのようなものであるか、彼らには分かっていない。

「杯」はその苦難を象徴しているのでしょう。

イエスはやがてご自分が受けることになる苦難を「わたしが飲む杯」と表現しておられます。

この杯には神の人類に対する怒りと裁きという苦い水が満たされています。

イエスは人類救済のために罪の贖いの子羊として、その杯を飲むように突きつけられているのです。

それは全人類の罪を背負いその罪を贖うための十字架死を指すのです。

それは単なる肉体の苦しみではなく、神の人類に対する罪の裁きを一身に引き受けて十字架にかけられる苦しみなのです。

イエスにとってこの杯を飲むことがいかにつらいことであったかは、ゲッセマネ(マタイの福音書26章36節から46節、マルコの福音書14章32節から42節、ルカの福音書22章39節46節)で三度まで「この杯をわたしから取り除けてください」と祈られたことからもうかがえます。

ここでは、弟子たちにそのような杯を共に飲むことができるかと迫られたのです。

弟子たちは栄光のみを考えて、そのために通らなければいけない苦難を考えられなかったのです。

というより、弟子たちにとって、メシアが殺されることなどあり得ないこと、思いもよらないことであったのでしょう。

弟子たちは39節で、「できます」とイエスに答えていますが、この答えは自分が何を求めているのか解っていない無知からくる思い上がりだと思います。

イエスでさえ取り除けてくださいと血の汗を流して切に祈られた杯を、誰が進んで受けることができましょうか。

●40節.しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」

イエスは39節で弟子たちに、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」と言われました。

この言葉は、イエスが十字架で死んだ後も弟子たちはイエスの名のために働くことになるので、そのために受ける苦難を予告されたのでしょう。

「わたしの決めることではない。」というのは、たとえイエスの名によって伝道して、そのために苦難を受けても、それが栄光の座に座る約束になるものでもなく、また、どのような栄光を与えられるかは、父なる神がその主権と恩恵によって決められることで、それは、イエス自身、また人間の功績や苦難の量で決まることではないと言うことでしょう。

イエスでさえ、それを決める立場にないことをここで明らかにされておられるのでしょう。

●41節.ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。

ヤコブとヨハネの37節のイエスへの願いに対して、他の十人の弟子たちが腹を立てているということは、二人の抜けがけに腹を立てたのでしょうね。

逆に言えば、他の十人の弟子も、この二人と同じ野心を持っていたということになります。

●42節.そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

異邦人というのは、イスラエル人以外の民族を言うのですが、この場合は諸国民ということでしょう。

その異邦人の世界では、「支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」のですが、「支配者と見なされている」というのは、実際は支配者でもないのにということ、すなわち、実際の支配者は神だということです。

本当に「偉い人」というのは、「多くの人を支配する者ではなく、すべての人の奴隷として、多くの人に仕える者」だということでしょう。

この世の現実は、それとは正反対なのです。

イエスは、43節以下を続けて言われる。

●43節.しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

●44節.いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

異邦人の世界は、支配者と思われる人が民を支配して、偉い人が権力を振るっているが、神の支配の下にある者(弟子たちを指す。イエスを信じる者)たちの間では、まったく逆の原理が支配すると語っておられます。

つまり、神の国で偉大な者とは、多くの人を支配する者ではなく、すべての人の奴隷として、多くの人に仕える者(僕)であり、あなたたちはその様な者になりなさいと言われているのでしょう。

この神の国の基本原理、価値観は、この世の価値観と全く反対なのです。

「仕える者」とは、人々の必要に答えるために、自発的に奉仕をする者のことをいうのでしょう。

人が困っているのなら見返りを求めず助けてあげる。自分にするのと同じように人にもするということでしょう。

自分に何かをするのには、見返りを求めませんから、見返りを求めない無償の愛を求めておられるのです。

僕(しもべ)は、奴隷の中でももっとも低い地位の者ということですので、こただし、ここで「仕える人」というのは、人間に与えられた当然の権利を、他の人々に仕えるために放棄した人のことをいうのだと思います。

神のために働くための召命を受けた人です。

●45節.人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

「人の子」とは、ご自分のことを言っておられるのですが、その人の子がこの世に来たのは、栄光の座から人々を支配し、人々に仕えられるためではなく、自分の命をすべての人の身代金として与えるために、つまり、人々のために「自分の命を献げる」ために来たのだと言われるのです。

イエスの十字架死は、人類の罪を贖う為の死、贖罪死と言われます。贖罪とは、人に使えることで、自己を他人に与えることであると言えます。

人類が神から離反したというのは、人類の神に対する罪であり、最大の負債です。

神はキリストにあってその恩恵により人類のこの負債を除こうとされたのです。

キリストは神のこの思いを実現する為にこの世に下ってこられたのです。

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