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2018年3月20日 (火)

金持ちの男(2)(マルコ10章)

「金持ちの男」の二回目です。
聖書箇所は、マルコの福音書第10章17節から31節の22節から26節までです。

●22節.その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

この聖句を読むと、やはりイエスはイエスと共に神の国の宣教に携わるように彼を召されたのだと考えられます。いわゆる召命です。

彼は、イエスを尊敬していましたが去っていきました。

イエスの召命の前に、立ち去ることは致命傷です。

彼は真剣に道を求めていたのでしょうから、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。

きっとその悲しみは、富を捨てきれない、イエスの求めに応じられない自分に対する悲しみなのでしょう。
イエスは、わたしたちの弱さをよくご存知です。

彼は、財産のすべてを捨てることができないならば、イエスの前に胸の内を明らかにし、歩むべき道を指し示してくださるように委ねるべきであったのでしょう。

救いの道は、すべてを捨ててついていく方法しかないのではないのですから、そうすれは最善の解決方法が示されたと思います。

持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に施しをすれば、天に大きな富をつむことになるが、しかしイエスはこの世を生きる人間にそのようなことができないのはわかっておられます。

それよりもまずわたしに従いなさいと言っておられると思うのです。

信仰とはそういうことでしょうね。

いろいろ問題があってもまず従う。そうすれば、あとのことは付いてくる。いろいろな問題も解決するということでしょう。

●23節.イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
彼は「永遠の生命を受け継ぐ」ことを問題としていましたが、イエスはこれを「神の国に入る」と表現しておられます。

両者は同じ事柄を指していると思います。

そして、召命を受けた彼のいう「永遠の生命を受け継ぐ」とは来世での問題ですが、イエスの言われる「神の国に入る」とか「命に入る」というのは、来世での約束であるだけでなく、人が目の前に直面している現実の問題でもあります。

そうです、神の国はわたしたちの中に神に御霊、聖霊によってすでに到来しているのです。

神の国に入るには、過去の自分を捨ててイエスの教えを「子供のように受け入れる」ことが必要ですが、人間には自由意志が認められているので、過去の自分を捨てないで拒む選択もあります。

過去の自分を捨てるか捨てないかは心の中の問題ですが、実際には、財産のある者がその魂において自分を捨てて無となることはきわめて難しいと思います。

人間には本性として、自分が所有しているものを拠り所にして生きる姿勢が身についています。

それから脱却することは人間の意志とか努力ではほとんど不可能だと思います。

強い信仰、いや、主の導きがなければ経済的に無一文になりこの世を生きることは現実的に難しいでしょう。

●24節.弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。

イエスの言葉は弟子たちの宗教的常識を覆すものでした。

既にイエスに従っている弟子たちも予想外のイエスの言葉に驚いています。

●25節.金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

金持ちだけに限らず、そもそも人間の本性からして人間が神の国に入るのは難しいことなのだ、とイエスは言われます。

この「難しい」という言葉について考えてみたいと思います。

イエスが神の国に入るのは「難しい」とか「門は狭い」と言われる時は、わたしたちのいう普通の意味の難しさ、例えば、能力のある者が懸命に努力してやっと達成できる難しさとか、一流の大学に入るのは難しいとかよく言いますが、そういう難しさと、門が狭いので入るのが難しいと言われる難しさは全く違った意味だと思います。

神の国に入る難しさは、例えば、イエスは何の能力のない子供を指して、「神の国はこのような者たちのものである」と言われました。

そして、神の国に入るのには、資格や能力は要らないので、何が難しいかと言いますと、それはイエスの教えを、出来事を「子供のように受け入れる」ことが難しいということだと思います。

イエスの教えを、出来事を子供のように受け入れるというのは、子供は生きていくには否応なく親に頼らざるを得ないように、つまり、親を受け入れざるを得ないように、あなたたちもわからないことがあっても自分を無にして(自我を捨て)わたしを信じてわたしの新しい教えを受け入れてついてきなさいということだと思うのです。

この自分を無にするのが子供ならば拠るべきなにものも持たないから、自分の今までの生き方に反することでも受け入れやすいのですが、現実的に大人は、いや、本来人間は、本性的に自分の価値(自我)を主張し、自分の力や努力に拠り所(自分の能力とか知識とか財産に)を求めるものですから、自分を無の立場(今までの生き方とか価値観を捨てること)に置くことは、人間の本性に反することですので、これほど難しいことはないと思います。

それは自分の持ち物が多い人ほど難しいことになります。

自分の持ち物が多い人が神の国に入るのは「らくだが針の穴を通る方がやさしい」、すなわち、「らくだが針の穴を通る」をたとえとして、まず不可能なことだと言われているのでしょう。

●26節.弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。

わたしたちの常識からすれば、教養があり社会的地位が高く、あるいは財産家で誰からも尊敬されている人、いわゆる人格者と言われている人ですら神の国に入るのがそのように難しいとすれば、平凡な人間はどうすれば救われるのだろう、ということになります。

われわれと同じように、このような見方しかできない弟子たちにすればイエスの言葉は驚き以外のなにものでもなかったでしょう。

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