枯れたいちじくの木の教訓(マルコ11章)
聖書箇所は、マルコの福音書11章20節から26節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書21章20節から22節です。
●20節.翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
マタイの福音書は、イエスの呪いの言葉の後すぐにいちじくの木が枯れたことになっていますが、ここでは翌朝になっています。
なぜ違うのか理由はわかりませんが、文書の構成上そのようになったのでしょうか。
それとも、マタイの福音書の方が後でできましたので、マタイがマルコを訂正したのでしょうか。
どちらにしても、いちじくの木はエルサレムを指していますので、いちじくの木が枯れたのは、イスラエルに対する神の裁きが決定的になったことを象徴的に表しているのでしょう。
●21節.そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が枯れています。」
ペトロは、イエスの呪いの言葉が原因でいちじくの木が枯れたことに驚いています。
まだ、そこにエルサレム滅亡という秘められた深い意味まで気がつきません。
それに対して、イエスはさらに驚くべきことを語られます。
●22節.そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
●23節.はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
ペトロは突然のイエスのこのようなすごい言葉は理解できなかったでしょう。
しかし、これはたいへんな発言です。
どのように受け止めればよいのか、わたしたちはとまどうばかりです。
山に向かって『立ち上がって、海に飛び込め』と言えばそのとおりになるのです。
そのようなことを、だれが疑わないで信じることができるでしょうか。
そんなバカな、という感じです。
神を信じたらそれができる、とイエスは言われたのです(22節)。
「この山に向かって」の山はおそらくオリーブ山のことだと思います。
それでは「海」とは、死海のことなのでしょう。
それでは、「神を信じる」とはどういうことかを考えると、解説によると「神の言葉が約束する事が、まだ見ていないこと、理解できないこと、人間の目には不可能と見えることであっても、それを語った方が信実であるということだけを当てにして行動し生きること」とありました。
神を信じれば、神は願うことは必ずなして下さるのです。
これは神の約束ですから必ず成るのです。
そして、その言葉は神の意志ですから、成し遂げるのは神です。なぜなら、「神にはできないことはない」からです。
ただし、願い事が神のみ心に沿っていなければ叶えられないのでしょう。
マルコの福音書9章23節のイエスの言葉「信じる者には何でもできる」とある通りです。
また、同10章27節「イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ということです。
ということは、神を「信じる」という行為には、神には不可能はないということを極限的に表現された言葉と言えます。
神を絶対的に信頼し、神の言葉に従って祈り求める時、祈り求めたことは必ず成ると「疑わないで信じる」ことができるならば、その願い事は、自分の目には未だ成っていないことでも、既に成ったのと同じ確かさで受け取ることができるということでしょう。
ヘブライ人への手紙 / 11章 1節の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」ということですね。
問題は、個々の祈りが神の言葉に従った祈りであるかどうかということでしょう。
自分が祈り求めるところが神のみ心に従ったものになるのは、聖霊によって神と親しい交わりの中で霊と真によって祈るときと言えないでしょうか。
そうであれば、何を祈ればよいかは自然と聖霊が導いて下さるということでしょう。
イエスは神の言葉が肉体をまとった存在です。
イエスは神の言葉を父なる神と共有しておられます。
このように神との交わりにおいて完全な方であったので、発せられる言葉がただちに神の言葉としての力を持ったといえます。
神の言葉は発せられたらそのようになるのです。
だから、発せられたらもう、過去形なのです。なったのと同じなのです。
つまり、信仰なくして奇跡はないということを、極限の言葉を使ってイエスは説明されたのでしょう。それが24節の言葉です。
●24節.だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
●25節.また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
●26節.もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。
祈りが力ある祈り、叶えられる祈りになるために重要なことは、24節と25節にあるように、「祈り求めるものはすべてすでに得られたと信じなさい」(24節)と「だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」(25節)ということでしょう。
祈りが叶えられるような祈りであるためには、祈りの内容が神のみ心に沿っているかどうかですが、何より重要なことは「信じる」ことと「赦す」ことであるといえます。
わたしたちは神に赦されたから人を赦せるのです。
神に赦されたことを信じることができれば、神の恩恵を信じることができるのです。
恩恵によって自分が赦されたことを信じることができれば、その人は当然神を信じていることになるのです。
だから、人も赦せるのです。
ということは、もし人を赦さないで恨みを持っているのであれば、その人は神の赦しを本当に信じているとは言えないということです。
そうであれば、その人自身が神の赦しを受けることができるかどうかはわからないということでしょう。
それは、その人に人を赦し憐みの心がないということは、その人は神と交わりを持っていないと言えるからです。
第一ヨハネの手紙4章19節から20節に「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません。」とあるとおりです。
神の愛を知るためには、神に対する罪を知り、悔い改めることが必要になるのです。元に戻りました。
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