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2018年3月25日 (日)

いちじくの木を呪う(マルコ11章)

聖書箇所は、マルコの福音書11章12節から14節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書21章18節から19節です。

●12節.翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。

この空腹はたんにお腹が減っただけなのか、それとも霊的な飢え渇きを指すのでしょうか。

次節にいちじくの実を探しておられたのならば、お腹が減ったということなのでしょう。イエスも人間ですから、お腹もすきます。

●13節.そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。

●14節.イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

この呪いの奇跡は、イエスがエルサレムでなされた唯一の奇跡だと思います。

イエスが呪いの言葉を語られるのは珍しいことです。

しかし、納得いきません。「いちじくの季節ではなかった」(13節)のですから実がならないのは当たり前です。
イエスがいちじくを求めて「実がなっていない」といって、木を呪うのはいかがでしょうか。

どのようにこの個所を理解すればよいのでしょうか。

共観福音書の並行個所を比べてみると、マタイの福音書21章18節から22節では、イエスがいちじくの木を呪われるとただちに枯れたことになっています。

マルコの福音書ではいちじくの木が枯れたのは翌朝になっています(マルコの福音書11章20節)。

そして、その間に「神殿から商人を追い出す」、いわゆるイエスの神殿粛清の行為がおかれています。

いちじくの木が枯れたのは、マタイとマルコで違いますが、理由は文書の構成上の問題でしょうか。

わたしが思うに、「いちじくの木を呪う」話も「神殿から商人を追い出す」話も、イスラエルに対する神の裁きを指すイエスの象徴行為であると思います。

いちじくの木はエルサレムを指し、神殿はエルサレムの象徴でしょう。

ということは、神殿での行為は、単に悪い商人を粛正する鞭ではなく、いちじくの木の象徴と同じくエルサレム壊滅の預言であることになります。

そうでしょう。商人を粛清などしたって意味のないことですからね。イエスは警察官ではありません。

イエスがイスラエルで十字架のつけられると言うことは、イスラエルの罪が満ちて裁きが決まったということです。
いよいよその時が迫ってきました。

イエスもご自分の十字架は避けられないことを覚悟されています。

避けられないということは、イスラエルの裁きも避けられないということでしょう。

ここのたとえでは、イエスはエルサレムを呪っておられるように思いますが、ルカの福音書19章41節から44には、イエスの次のようにエルサレムの民の滅びを嘆いて、涙を流されている記録があります。

「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」

イエスはここに至るまでに、多くの力あるわざと多くの言葉で神の支配の到来を告げ、イスラエルに悔い改めて立ち返ることを求めてこられましたが、イスラエルの民はその呼びかけに応えないで、イエスを殺そうとしています。

もはや、呼びかけの時は過ぎ、裁きが決定的になる時が来ています。

イエスはイスラエルに裁きがあることを、言葉でなくいちじくの木を枯らし、神殿で鞭をふるうという象徴的な行為を持って予告されたのでしょう。

とくにいちじくの木は言葉を持って枯れさせました。それが神の意志でしょう。

このようなイエスの行為はイスラエル指導者に対する決定的な反逆行為となりました。

これらの行為は、イエスが死刑を宣告される直接の理由となったと考えられます。

神は忍耐をもってイスラエルの立ち直りを待たれました。

終わりの日にはご自分の御子をイスラエルに送り最後のチャンスを与えられました。

しかし、最後までイスラエルは真の神を見つけられずに、立ち返ることはなかったのです。

そのようなイスラエルは神のイスラエルを通しての人類の救済のご計画は、もはや無意味になったということです。

そのことが14節の「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」というイエスの言葉となったのでしょう。

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