エルサレムに迎えられる(マルコ11章)
聖書箇所は、マルコの福音書11章1節から11節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書21章1節から11節/ルカの福音書19章28節から40節です。
マルコの福音書は、イエスの受難物語(十字架の刑死)に重きを置いて書かれていると思います。
いよいよ、イエスの伝道活動の最盛期を迎え、十字架死に向けて福音書も最終場面です。
●1節.一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
イエスはいよいよユダヤ教の本拠地エルサレムに入られます。
弟子を使いに出しそのための準備をされます。
ベタニヤはエルサレムの東三キロほどのところ、ベトファゲはベタニヤよりさらにエルサレムよりの位置にあるということです。
エルサレムから三キロの地ですからエルサレムはもう目と鼻の先です。
イエスはこのベトファゲというところで、エルサレムに入る準備をされます。
●2節.言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
1節で、イエスが弟子二人を使いに出しましたが、それは「まだ誰も人が乗ったことのない子ろば」を連れてくるためでした。
イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入ろうとされているのです。
マルコの福音書は、イエスが子ろばにのってエルサレムに入られるのは、旧約聖書ゼカリヤ書9章9節の預言「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」の成就としています。
わたしはイエスがエルサレム入りの準備をこのようにされたのは事実だと思います。
イエスご自身がゼカリヤの預言を意識してこのような準備をされたのではないでしょうか。
マタイの福音書21章4節には「それは、預言者(ゼカリヤ書9章9節)の預言を通して言われていたことが実現するためであった。」とはっきりと書いています。
わざわざ「まだ誰も乗ったことのない」と断っていますが、この言葉が旧約聖書の預言の成就かどうかは、ユダヤ人のために書かれたマタイの福音書にはないのでわかりません。
意味は、誰も乗ったことがないのですから、王が乗るものとしてふさわしいということでしょう。
また、子ろばに乗ってエルサレムイに入られるイエスは、力をもって民を支配するこの世の王とは違い、ゼカリヤ書9章9節の預言にあるように「高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」その民のところに来られる王です。
この姿は、イエスがどのような性質の神の支配をもたらす方であるかをよく表しています。
●3節.もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
●4節.二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
●5節.すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
『主がお入り用なのです。・・』とありますが、これは、イエスがエルサレムで十字架の苦しみを受けることによって神の人類救済というご計画が最終的に成就されようとしている今、そのために神は子ろばを必要とされているということでしょう。
しかし、神は子ろばのこの世の所有者のことも配慮され「またすぐに、ここにお返しになります」と言われているのです。
●6節.二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
イエスが語られた言葉とおりになったのです。
不思議な出来事ですが、わたしは決してその村にもイエスを信奉する者がいて、あらかじめ打ち合せがしてあったなどと現実的な考えをしたくはありません。
それより、創造主(=神の言葉の表れイエス)があらかじめ語った言葉がその通りになっていくと考えたいと思います。
●7節.二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
弟子が子ろばに自分の服をかけたのは、王として都に入られるイエスに対する精いっぱいの敬意の表現なのでしょう。
なお、イエスが子ろばに乗って都に入られたというのは、四福音書すべてに記載があるということは、そこに省略できないと言う強い意志が感じられますので事実だと思います。
●8節.多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
多くの人が、服を道に敷き、野原から葉のついた枝をもってきて道に敷きました。
この時代一般大衆はローマ支配下で圧政に苦しみ打ちひしがれていました。
イエスは自分たちの救いの王です。
「自分の服を道に敷き」というのは旧約聖書列王記下9の13にもありますね。
ヨハネの福音書12章13節には、この「木の枝」がなつめやしの木であると伝えています。
「なつめやし」というのは「しゅろの木」のことですから、イエスのエルサレム入りの日が「しゅろの日曜日」と呼ばれているということです。
しゅろの葉はイスラエルでは祭りなどで用いられているということです。
●9節.そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
「ホサナ」というのは、解説によると、もともとはイスラエルの民がエルサレムへ巡礼するときに用いられたハレル歌集(詩編113~118編)の最後の詩編118編の25節に出てくる「どうか主よ、わたしたちに救いを」(原語ホーシーアンナー)が転化して、「ホーサンナ」、「ホサナ」になったということです。
しかし、マルコがこの語を用いた時代には、日本語のばんざい!のように、神の前で喜びを表す、ほとんど意味のない喚声になっていたということです。
「主の名によって来られる方に祝福があるように」と叫んでいますが、これは(詩編118編26節)の言葉ですね。
民衆は、イエスをイスラエルに約束されていたメシアの到来として歓呼して迎えたということでしょう。
●10節.我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
ダビデの時代は、イスラエルが歴史上もっとも繁栄した時代でした。
「ダビデの来るべき国」とは、そのダビデの時代の復活を意味し、それはイスラエルの長年の悲願でした。
神はダビデ王国を(イスラエルの国)を建て直すと言われています(使徒言行録1章6節)。
イスラエルの民はダビデの子孫によって異教徒ローマの支配から解放され、その本来の栄光に与るときが来るのを待ち望んでいたのです。
このときイスラエルの民は、今その時が来たと思い興奮し、その興奮は頂点に達していました。
●11節.こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
イエスがエルサレムに入られた直後の行動を簡単に書いています。
イエスは妨害を受けることなくユダヤ教の牙城である神殿とその辺りを見てまわり、夕暮れになってから十二人の弟子を連れて都を出てベタニアに出て行かれました。
ベタニアはエルサレムから約3キロです。イエスは3キロの道を子ろばに乗ってエルサレムに入られましたが、夕方になり同じ道を歩いて戻られたのです。
エルサレムに入るときは大変な騒ぎでしたが、エルサレムにおられるときとかエルサレムから出て行かれる時は静かですね。
群集の熱気というものは、熱しやすく冷めやすいものです。
エルサレムでのイエスの状況は、マタイの福音書21章10節から11節に「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。」とあるだけです。
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