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2018年3月23日 (金)

盲人バルティマイをいやす(マルコ10章)

聖書箇所は、マルコの福音書第10章46節から52節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第20章29節から34節(二人の盲人をいやす)/ルカの福音書第18章35節から43節(エリコの近くで盲人をいやす)です。

●46節.一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子でバルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。

調べてみると、エリコの町はサマリヤを通らずにヨルダン川の東側を通ってエルサレムに入る道を選ぶときに通るところで、エルサレムから東20キロ程手前だということです。

イエスの一行も「ヨルダンの向こう側」(10章1節)からエルサレムに入ろうとして、エリコを通過されたのでしょう。
イエスのエルサレムへの最後の旅も、いよいよ終わりに近づきました。

「大勢の群衆と一緒」というのは、イエスを偉大な預言者と信じて、イエスがエルサレムに入られると何か大変なことが起きるのではないかという期待に興奮して、イエスと一緒にエルサレムに向かって行進している群衆のことでしょう。

イエスの人気はこの段階で相当すさまじかったのでしょう。

なにしろ、世の権力者が恐れるほどですからね。

「ティマイの子でバルティマイ」は、癒される盲人の名前ですが、普通、福音書ではイエスの力ある業によって癒された人の名があげられることはありません。なぜ、ここは名前をあげて伝承されたのでしょうか。

このような説があります。福音書執筆当時この人物はまだ生存していたから、この驚くべき奇跡は直接本人に確かめることができたので、名前が書かれたのではないかということです。

●47節.ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。

「ダビデの子イエスよ」というのは、「ダビデの子」という称号は、当時のユダヤ人の間では、預言者において預言されていた、やがて終わりの日にやってくるメシアを、かつてのダビデ王国のときのイスラエルの繁栄を夢見てそのような称号で呼んでいたと言うことです。

盲人はイエスをユダヤ人が期待しているようなメシア(救い主)と信じて「ダビデの子」と叫んだのでしょう。

イエスは、ユダヤ人が期待しているようなメシアではないが、約束された終わりの日に「来るべき者」であることは間違いがないので、盲人も純粋な信仰心からイエスを「来るべき方」と信じて「ダビデの子」と言ったのだと思いますので、イエスはそのまま受け入れられたのだと思います。

この盲人は、メシヤが来られるとき、盲人の目は開かれるという預言を信じていたのでしょうね。

●48節.多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。

「多くの人々が叱り付けて黙らせようとした」というのは、大衆にとっては、イエスは民の期待を背負った偉大な預言者です。

イスラエルを救うと期待されているメシヤです。

その方へこの盲人は助けを求めて叫び続けたのです。

イエスのまわりにいる人々が、これからメシアとしての働きをされるイエスの手を煩わせないようにと思って止めにはいったのでしょう。

●49節.イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」

●50節.盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。

「あの男を呼んで来なさい」といって、彼の信仰に応えてイエスは盲人を呼ばれました。それを聞いた盲人は、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」。

盲人の信仰がよく表れています。嬉しかったのでしょう。

イエスの力ある業にすがるのは、盲人にとって癒される最後の手段であったのでしょう。

●51節.イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。

「何をしてほしいのか」というイエスの問いに、盲人は「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えます。

医学の発達していないこの時代、盲人の目を見えるようにするのは、ほとんど不可能です。生まれつきのものであれば現在でも不可能でしょう。

盲人がそのような通常では不可能なことをイエスに願ったのは、それまでにもイエスが大勢の人の病を癒されていることは、知っていたはずですから最後の望みとしてイエスにすがったのでしょう。

イエスの中に神の力が働いていると信じていたのでしょうね。

●52節.そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

イエスは盲人に「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

「救った」ということは、盲人の目が見えるようになったということもありますが、それは同時に盲人が盲人であるゆえの地獄のような生涯から救済されたことを宣言されたということになります。

それにしても、すごいですね。イエスの言葉と出来事、イエスが盲人に「見えるようになれ」とか死人に「起きよ」と言われるその言葉通りのことがすぐに起こるのです。

そのようなイエスを見て人々は、「いったい、この方はどういう方なのだろう。」と驚愕の驚きを表します。

もし、わたしがそばにいたら、そのような驚くべき事態に直面したら、どうしたでしょうか。

まさに「人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。」(マタイの福音書 8章 27節)とあるとおりです。

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