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2018年3月20日 (火)

金持ちの男(3)(マルコ10章)

「金持ちの男」の最終回です。
聖書箇所は、マルコの福音書第10章27節から31節です。

●27節.イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

イエスのなされた奇跡、理解が困難なイエスの言葉の理由がここでは語られています。

そうですね、天地万物を創造された神様なら、たしかに何でもで出来る方です。

その神様とイエスが一体ならばイエスには何でもできます。

しかし、その神様は人間にとって最大の問題は自己中心性であることはわかっているのに強引に変えようとはされません。

神様は人間に自由意思を与え、個人の人格を大切にされ、神様中心に生きるか自己中心に生きるかを選択する自由意思をあくまでも尊重されているのです。

そのために人間は、その本性(自己中心性)から自分で自分の心を神に明け渡すことができないのです。

人の心を変え、人の心を無にすることができるのもわたしたちを造られた神様だけです。

ここで、財産を捨てることができず去っていった金持ちの男の問題に対して解決が与えられています。

金持ちの男は自我を捨てられなかったから、イエスの言葉を聞いてとても自分にはできないと思って去ってしまいました。

財産を捨てられなくても、もう一歩踏み込みイエスに身をゆだねてしまえば、きっと、歩むべき道を示されて神の国を見ることができたのだと思うのです。

神はあくまでもご自分に人生のすべてをゆだねることを望んでおられるからです。

神はわたしたち人間を罪の中から救い出そうとされています。神は人間の自由意思を尊重して(選択を人間にゆだねて)、自己中心から神中心に生きるように導かれているのです。

その証は、ズバリ、イエス・キリストの十字架です。イエスが十字架の上に血を流して死なれたのは、われわれ人間の罪を贖うためでした。

すなわち、そのイエスの死は自己を主張してやまない人間の本性、それゆえ神の恩恵にすがろうとしない人間の罪、その罪を自らに引き受けての死でした。

神はイエスの十字架において人間のかたくなな自我心を打ち砕かれたので、今、イエスを信じてその十字架に合わせられる者は、自我が砕かれ罪の悔い改めに導かれます。

それは、イエスの言葉を信じ、心に留めて、聖霊を授かればその聖霊によってなされることなのです。

そして永遠の命への変容という恩恵を受けるのです。

聖霊が自己の内に働かれるときに、わたしたちの自我が打ち砕かれます。

罪が示されます。これは現実です。

●28節.ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。

「このとおり、わたしたちは・・」というペトロに言葉は、ペトロをはじめ弟子たちは金持ちの男と違って、イエスに召された時、ただちに家業や家族を捨ててイエスに従いましたから、財産のある者が神の国に入ることはまず不可能なことだと言われたイエスの言葉に対して、ペトロが弟子たちを代表してこのように言ったのでしょう。

ここには書いていませんが、続く言葉として、「だから、わたしたちはすべてを捨てて従ってきた以上、神の国には当然入れるのでしょうね、」とイエスに自分たちが神の国にはいれる確証を暗黙の裡に求めたのでしょう。

●29節.イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、

●30節.今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。

「はっきり言っておく」とイエスが言われるときは、重要な言葉を語りだされる時です。

弟子たちがしたようにイエスに従うために家族や家業を捨てることは、イエスの復活以後においてはイエスをキリストであるとする福音を証し、宣べ伝えるために家族や家業を捨てることと同じだと考えます。

「わたしのためまた福音のため」というイエスの言葉がそのことを語っています。

この聖句を細かく見れば、「妻」はリストに含まれていません。

父は、捨てる方のリストにはあるが受ける方にはありません。

また捨てる家業は畑だけで舟や網がない。

このような違いをいちいち考えていたら前に進めません。

おそらく、特別な意味はないのでしょう。たんにリストが不完全だけということでしょうか。

だから、細かいところは気にせずに、何を言おうとしているのかその意味を汲み取りたいと思います。

そのようにして得る報いは、自分を捨ててイエスに合わせられて生きる者に与えられる、来るべき世において神の前に生きる永遠の生命ということでしょう。

自分を捨ててこの世をイエスと共に生きるとき、この世ではイエスが苦しみを受けたように迫害も受けなければならないが、同じ生命に生きる者たちの交わりの豊かさや生きることの喜びの深さを同時に味わうことが許されるのでしょう。

パウロはこの生を、信仰と愛と希望に生きる、といいました。

何者にも代え難いとも言いました。

これは理屈ではなく、体験して初めて分かることだと思います。

「百倍も受け」という表現は、その受ける恩恵の豊かさの大きさを示しているのでしょう。

ここで一言、現在においては、福音のためイエスのために生きなさいと、神に聖職者として召された人はここの聖句が語るようにすべてを捨てる覚悟を要すると思いますが(そのために信徒は献金を持ってその人たちを養っている)、一般信徒にはそのようなことは求めておられないと思います。

当然のことですが、イエスは、家族を作ることとか経済活動を決して否定されていません。

あえて一般信徒に適応すれば、家族などを捨てるというのは、生まれながらに持っている古い命、罪の中に有り死ぬべき古い命を捨てることに例えて、イエスを信じることによってイエスの十字架にあわせられて古い自己を無にして新しい命に与ることを「百倍の報い」に例えたいと思います。

●31節.しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

このみ言葉は、格言ですね。

人の運命の変転を語る当時の格言をイエスが神の国の一面を語るのに用いられたのが伝承されたということです。

聖書を読めば、次のことが見て取れます。

つまり、神の国に入るのは人間的な評価では最も先に入ると見られている者ではなく最後になると見られている者、つまり、価値観の逆転です。

この逆転は、地域で最も弱かったイスラエルが選ばれ、強大な民ではなく弱小の民が、兄ではなく弟が選ばれるのは、旧約聖書以来の伝統です。

そして当時のイスラエルにおいても、聖職者ではなく取税人や遊女が(マタイの福音書21小31節)、イスラエルではなく異邦人が先に神の国に招かれる(ルカの福音書13章28節から30節)のです。

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