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2018年3月15日 (木)

離縁について教える(2)(マルコ10章)

聖書箇所は、マルコの福音書第10章1節から12節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第19章1節から12節です。

ここ(2)では、9節から読みます。

●9節.従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

二人の出会いが創造のみわざの中での出来事ならば、人間がその出会いを壊すようなことはしてはならない。
それは創造の秩序を壊すことになるからだということでしょう。

創造者が結び合わせたものを壊すのは、人間の自我というか自己中心性です。

相手に対する思いやりのない自己主張が、二人の心を引き離し、それがだんだんと二人の共同の生活を困難にし、ついには別れざるをえないようにさせるのではないでしょうか。

●10節.家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。

イエスは離縁を創造の秩序に反することだと言われます。

ところが、ユダヤ教ファリサイ派の人々とかイエスの弟子たちも、モーセの律法を神聖な秩序として教えられてきたユダヤ人ですが、現実は、離縁を認めているモーセ律法に反して、また、(その自己中心性により)離縁せざるをえない状況がしばしば起こっている中で、離縁は当然のものという考えが定着していたのでしょう。

そういう現実を無視して、イエスがモーセ律法で認められた離縁を否定されることには弟子たちにも納得できないものがあったのではないでしょうか。

離縁せざるを得ないのは、どこまでも神を無視して自我を主張する人間の本性ゆえであるのに、律法学者は、そのためにモーセ律法がやむをえず離縁を認めているということも分からず、離縁を認めたモーセ律法を、自我を通すために自己に都合よく用いていたのでしょう。

●11節.イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。

●12節.夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

ここでは、姦淫の罪が語られています。

「姦淫してはならない」という戒めは、モーセ律法のもっとも基本的な戒めである「十戒」の中の一つです。その裁きは死刑です。

モーセ律法では、姦淫してはならないと定めますが、相応の理由があって、離縁状を夫が妻に渡して(一方的に)離縁したのであれば、離縁したあと夫は他の女と再婚しても、それは律法によって許されていることになり、姦淫したことにはならない。

妻もその離縁状を持って再婚すれば、姦淫にならないと定めています。

ところが、イエスはこのようにモーセ律法によって許されている離縁も再婚も、神が合わせられた結婚の一体性を破る行為として、否定され姦淫を行なっているとされたのです。

それは、モーセが離縁状を書いて離縁することを許した(4節)のは、人間の心の頑固さ(自己中心性)からでした。

そう言う意味では、モーセ律法も現代の法律も同じ立場にあると思うのです。

離縁に関する細かい例外規定は、人間の本性である自己中心性が支配する現実をみて、離縁せざるを得ない現実があることを認めて、そのような場合には、弱い立場の者(ここでは女性)を保護するために、また社会の秩序を維持するために定める必要があったのでしょう。

当時社会的に弱者である女性とか子供は、離縁されたら一人では生きてはいけません。女性は、生きていくためには再婚をする必要があったのでしょう。

それに対して、イエスは神の支配の場での結婚の姿を語っておられると思うのです。

人を男と女に創造された神の「二人は一体となる」という定めは、神の支配下(パウロがいうキリストにあって)にあって初めて実現する姿なのです。

イエスの言葉は、本来そのようなあるべきわたしたちの姿を語っておられると思うのです。

フアリサイ派の人々も今を生きるわたしたちも同じだと思うのですが、現実には、離縁の動機として今の妻はあきたので他の女に乗り換えたいという自分勝手な動機が多いのではないでしょうか。

そのわがままを当時のフアリサイ派の人々は、離縁状を定めているモーセ律法をもってきて、自分たちの自我を正当化しているのに過ぎないといわれたのでしょう。

彼らは、表向きは神の掟に従っているのであるが、本質は神の掟を故意に破って、自分を罪に定めていることになるのです。


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