再び自分の死と復活を予告する(マルコ9章)
聖書箇所は、マルコの福音書第9章30節から32節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第17章22節から23節/ルカの福音書第9章43節から45節です。
●30節.一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
「一行はそこを去って、」、つまり、イエスの姿の変容(同9章2節以降)のあと山から下り、汚れた霊にとりつかれた子供を癒され、ガリラヤを通って一路エルサレムへ行かれる途中のことでしょう。
イエスは山上での変容の際に人の子の奥義を一部の弟子たちに語り、最後の旅である受難の地エルサレムに向かう準備を終わられました。
悪霊の追い出しとか病の癒しは、憐れみのゆえなされたことで、そのことは、イエスがこの世にこられた本当の目的ではないのでしょう。
イエスは静かにそこを去られたかった。その理由はつぎの節にあります。
●31節.それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
イエスはご自分の十字架死と復活を予告されました。
受難の地エルサレムへの最後の旅に際し、イエスはこれから我が身に起こる重大な事態を前に民衆との交わりを避け、静かな環境を求めておられたのでしょう。
イエスが変容された山から下った一行は、ガリラヤを通って一路受難の地エルサレムに向います。
この旅では、イエスはもはや民衆に宣教しょうとはしないで、人目を避けて、ひたすら弟子たちに「人の子」の秘密(言い換えれば十字架の奥義)を教えておこうとされています。
●32節.弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
「この言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」となっていますから、弟子たちは、31節の「人の子」はアラム語(福音書はキリシア語で書かれています)でしたので、その意味はわからなかったので確かめたかったが、前後の言葉からイエスが何を言おうとしているかはある程度理解できたので、それが事実であるなら、それはとても受け入れることができるものではなかったので確かめるのが怖かった、と言うことではないでしょうか。
わたしはルカの福音書第9章45節の「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」から推測し、イエスはこのような謎の言葉を(意味があって)残されたが、弟子たちはその意味が理解できませんでした。
それに、なによりも弟子たちにとって、イエスのように神の力をもって大いなる奇跡を行い、メシアとして来られた方が殺されるようなことは、想像すらできない、あってはならないことであったのでしょう。
ルカは、そのような弟子たちのことを、「彼らには理解できないように隠されていた(=神が隠しておられた)のである」(ルカの福音書9章45節)と書いて、神の計らいの結果であるとしています。
どちらにしても、その時の弟子たちの実際の姿としては、イエスの謎の言葉に戸惑い恐れている姿が事実でしょう。
ここで、ルカの福音書の並行箇所をもう少し見てみたいと思います。
イエスの三度にわたるエルサレムに向かう旅の途上での受難予告(ルカの福音書第9章22節.18章31節から33節)にもかかわらず弟子たちは、イエスが語る受難予告の内容は自分たちの思惑とは違いましたので、それが事実であったときの恐れと無理解(そうかなと思っていても理解したくなかった。)の中で、弟子たちは自分たちのメシア期待に燃えてエルサレムに向かって旅をします。弟子たちはイエスと同床異夢の状態にあったのでしょう。
イエスと弟子たちはエルサレムへの旅を共にしていますが、イエスと弟子たちは心の中では別の道を歩んでいるのです。
イエスは受難の道を、弟子たちは(自分たちの救い主としての)メシアの栄光と支配の道を歩んでいます。
このことは、弟子たちが仲間の中でだれがいちばん偉いかという議論をしていたという事実からもうかがわれます。
それは、エルサレムに入る直前、ゼベダイの子のヤコブとヨハネが言った言葉、次の聖句です。
マルコの福音書第10章35節「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
同36節「イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
同37節「二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と頼んでいます。
これも、弟子たちが直前までいかにイエスの受難の道(十字架)を理解せず、違った道を歩んでいたかを示しています。
なお、このことが本当の意味で弟子たちに分かるのは、イエスが十字架で殺されて、復活し、天に昇られて、聖霊が弟子たちに降った時なのです。
聖霊の働きがなければ、神のみ心は分からないのです。
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