フォト
2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

カテゴリー

« 罪への誘惑(マルコ9章) | トップページ | 離縁について教える(2)(マルコ10章) »

2018年3月15日 (木)

離縁について教える(1)(マルコ10章)

聖書箇所は、マルコの福音書第10章1節から12節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第19章1節から12節です。

二回に分けまして(1)では8節までを読みます。

●1節.イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆が集まってきたので、イエスは再びいつものように教えておられた。

「群集がまた集まってきたので」ということは、ヨルダン川の向こう側(東側)に行かれたが、そこでもいつものように飼う者のない羊のような群衆がイエスの噂を聞いて集まってきたということでしょう。

そして、イエスはここでも群衆を憐れみ、「神の国」の教えを説かれます。

イエスは十字架死を目前にして、それまでのしばしの間エルサレムから離れた比較的安全な所で弟子たちと過ごされたのでしょう。

●2節.ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。

ユダヤ教ファリサイ派の人々はイエスを監視するためにイエスについてきています。

そして、策謀をめぐらして、イエスに詰問します。

質問は、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」でした。

モーセ律法の立場からは離縁が許されています(申命記24章1節~4節)が、離縁の理由については意見が分かれていました。

それにもかかわらず、彼らがイエスにこの質問をしたのはなぜかと考えますと、イエスは山上の説教の中で、離縁は姦通(マタイの福音書第5章32節)に当たり罪だと教えていましたので、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と質問をして、イエスから「離縁は許されない」という発言を群衆の前で引き出し、イエスが律法の明文を無視しているという言い訳できないような証拠を得ようとしたのでしょう。

●3節.イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。

●4節.彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。

詰問に対し、イエスはいつものようにその質問に直接答えずに逆に「モーセはあなたたちに何と命じたか」(3節)と質問されます。

彼らファリサイ派の人々はイエスの問いに対し「モーセは離縁状を書いて妻を去らせることを許しました」(4節)と答えました(申命記24章1節)。

●5節.イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。

「心が頑固なので」というのは、「なので」ですから、すでにファリサイ派の人々の心は頑固だと言っておられるのです。

なぜそのようになったのかというと、それは、いつまでも神の声を聞こうとしないから心は少しずつ頑固になり、ついには神の声が聞こえなくなったということでしょう。

モーセ律法は離縁を認めていますが、それは夫婦の関係において人の心が頑なであるから認めているというのです。

本来、結婚は神の恵みなので、心が神の愛に満ちているならば、このような規定は必要なかったのですが、神に対してどこまでも自分を主張しようとする頑固さによって、イスラエルは神から離れ、そのために神の恵みからも遠ざかり、人間関係も破綻し、夫婦関係においてもお互いの心は離れ離れになり、もはや一緒に暮らすことがお互いの不幸になるという状況が生じることになっていたのです。

その様な状態にあっても、夫婦が共に暮らすのは酷というものです。

その不幸をやわらげるために、とくに弱い立場の者(女性と子供は古代では社会的に立場が大変弱かった。)を保護するために、その社会が許す範囲内でやむをえず離婚を認める律法が必要になったということでしょう。

そして、離縁の際には離縁状を出すように求めています。

当時不倫は死罪でしたから、それは女性を救済するためで、再婚する自由を保証する為のものでした。

当時離縁された女性の経済基盤は弱く、再婚という道を選ばなければ、生きてはいけなかったのでしょう。

このように考えると、古代も今も離縁は心の頑なさから生じるものと言えるかもしれません。考えさせられます。

●6節.しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。

●7節.それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、

●8節.二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。

イエスは創世記の天地創造の記事を要約して語られます。

人間を男と女に作ったのは、神のみわざだと言われます。

「それゆえに、人は父と母を離れて妻と結ばれ、」、つまり、人間が男と女として存在しているのは、創造者がそのように人間を造られたからです。

そして、男と女が結ばれて一体とならなければ人類が存続できないというのは神の摂理です。節理ですから、祝福されるべきことです。

従って結婚は創造者が定められた秩序であり、二人が一体となることが創造者の意志であるということになります。

結婚は神の人類創造のご計画の一環であり、結婚が創造者の定められた摂理で秩序ならば、一人の男と一人の女が結婚により結ばれることは、それは偶然とか好き嫌いとか自己の都合で結ばれるのではなく、また、一緒に暮らし生物学的な生殖活動を行うことだけでもない。

両者が一体となるなるためには、両者の自己中心性という本性を克服(互いに自我を思うまま表に出していたら結婚生活はなりたたない。両者は一体となれない。)しなければならない。

そのために両者は相手を慈しみ自分を愛するように愛することで、自我の克服が成就され二人が一体となるならば、その結婚生活は創造者に祝福された結婚生活になるということではないでしょうか。

« 罪への誘惑(マルコ9章) | トップページ | 離縁について教える(2)(マルコ10章) »

共観福音書を読む」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 離縁について教える(1)(マルコ10章):

« 罪への誘惑(マルコ9章) | トップページ | 離縁について教える(2)(マルコ10章) »