イエス、死と復活を予告する(マルコ8章)
聖書箇所は、マルコの福音書第8章31節から第9章1節です。
共観福音書の並行個所はマタイの福音書16章21節から23節とルカの福音書9章22節から27節 です。
の福音書第8章
●31節.それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
イエスはガリラヤでの伝道を終え、これからいよいよイスラエルへ最後の旅に向かわれます。
イエスは弟子たちといられる時間がもう残り少なくなってきました。
この時から、イエスはご自分に関する秘密を弟子たちに教えられ始めました。その内容はこの31節の、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され、三日の後に復活することになっている」でしょう。
この「人の子」というのは、イエスご自身を指しメシアの称号だと思います。イエスは一貫してこの呼び方を用いておられます。
なお、イエスがご自分のことをこのように呼ばれるときを調べてみると、イエスが発言される中だけに用いられていて、他の人がこの名でイエスに呼びかけたり、イエスについて語ったりすることはなかったと言うことです。
イエスは、当時の人々が想像するメシア像とはあまりにもかけ離れていました。天地を造られた全能の神が、多くの苦しみを受けて、地上の支配者に殺されるなど普通の頭では考えられないことですからね。
●32節.「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」
イエスは、これから受ける十字架の受難をはっきりと話されました。
ペトロや弟子が期待するメシアは、力によって不義や不法を滅ぼし、イスラエルと自分たちの栄光を取り戻すためのメシアでした。
不法の力に屈して人間に殺されるメシアなど、ペトロや弟子たちはとうてい考えることはできなかったでしょう。
イエスの言葉に弟子たちは戸惑い、ペトロはイエスにそのような受難の道を行かれないように願いイエスに忠告しました。
「イエスをわきへお連れして」とありますから、弟子たちみんながペトロと同じ考えで、ペトロが代表してそのように言ったのでしょう。
弟子たちにとって、メシアイエスが殺されることなどあるはずのないことでした。
神を体現しているイエスを目の前にして、そのイエスと寝食を共にしている弟子でさえこうですから、人間と言う者は、何処までも自己中心的にしかものを考えられない生き物ですね。
●33節.「イエスは振り返って弟子たちを見ながら、ペトロを叱っていわれた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」、
ペトロにそういうことを言わしめているのは、サタンがペトロをそそのかして言わしめているということでしょう。
イエスはそのことを知っておられてそのように言われたのでしょう。
ペトロは気が付いていなかったでしょうが、ペトロに隙があったからサタンに付け込まれたのです。
しかし、弟子たちがイエスのことをまだよくわかっていないことは、イエスもご存知ですから、この厳しい叱責は、ペトロらの無理解に対する怒りというより、イエスを諫めるように誘うサタンの影響を受けたペトロ、そのペトロの言葉にサタンの声を聞いたので、イエスはサタンに厳しく叱責されたということでしょう。
サタンがペトロの思いに入ってきた理由は、入り込む隙があったから、つまり、ベトロ自身が神のことを思わなくて、人のことを思っていたからと言えるのではないでしょうか。
●34節「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
イエスは、弟子たちだけでなく、群衆をも呼び寄せて、改めて何かを言おうとされます。
それは、弟子にも群衆にも共通してかかわることをこれから述べようとされたからでしょう。
その言葉は、「わたしの後にしたがいたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」でした。
イエスにつき従うためには条件があるのです。
それは、自分を捨てることと、自分の十字架を背負うことです。
まず「自分を捨てる」こととはどういうことでしょうか。
自分を捨てるですから、自分を中心にした思いを捨てるということでしょう。
そして、神への思いを中心にして生きること。
群衆はイエスについて来るときに、自分の必要以上を満たそうとしました。
また、弟子たちは、神のことを思わず、自分たちの利益を思ってイエスに忠告しました。
つまり、自分の欲望を満足させるためにイエスの力を求めていたのです。
それがいけなかったのでしょう。
弟子たちがイエスにどこまでもついて行こうとしたのは、この段階では、イエスがイスラエルのためのメシアとして、ローマの支配を含める今の支配者層であるユダヤ教指導者層を滅ぼして、新しいイスラエルを築くための事業が完成された後、自分たちがその指導者層に代わってイエスと共にその新しいイスラエルをおさめたいとの欲望があったのだと思います。
弟子たちと群衆に対して、イエスはご自分に従うとはどういうことかを初めて明らかにされます。
「自分の十字架を背負って」、というのは、自己中心性(自分の思いを中心にしての生き方を)を捨てて神の思いを中心に生きるということでしょう。
それは、イエスの言葉を述べ伝えてサタンが支配するこの世を生きることです。両者の考えは180度違いますから、そうすると必ず迫害にあい、苦しみを背負うことになるので、その苦しみを背負って生きなさいと言われているのでしょう。
サタンはイエスの敵ですからイエスの言葉を信じ、広めようとする人たちに対し攻撃を仕掛け邪魔をしょうとするのは当たり前です。
●35節.「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
「自分の命を救いたい者」とは、神のことを思わず自分のために生きている人。そういう人は、恩恵によって戴いた本来持っているはずの永遠のいのちを失うことになる、と言われたのだと思います。
言い換えれば、自分の努力で本来持っている永遠の命を救おうとする者は、自分で自分を持ち上げようとすることと同じであり、それは、不可能で無益なことだと言われたのでしょう。
神から頂いた命は、神にしか救うことはできません。
「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」
わたしのため、というのはイエスのため、福音のためというのはイエスの言葉を伝えるために、両者は同じことを言っているように思います。
そうすることによって迫害にあい、殺されることがあっても、それはこの地上を生きる命が殺されるのであって、逆に永遠のいのちを得ると言われているのでしょう。
もちろん、この永遠の命と言うのは、時間的な永遠ではなく、神と共に生きる命と言うことでしょう。
神はその様に人間を創造されたのですから、その様になるのがわたしたちの本来あるべき姿で、一番の幸せだと言うことでしょう。
イエスに従って自分の命を失う者、すなわちイエスのために自分を捨てる者は、イエスが十字架でそうしたように自分を神に投げ出していることになります。
そのような者は、神から永遠の命を受ける、あるいは永遠の命を見いだすことになると言われたのだと思います。
イエスはご自身が歩んでこられた捨てることで得られるという命の道の逆説を弟子たちに語りました。
サタンの支配下と神の支配下の世界は物の価値観が180度違いますから当然そのようになるのでしょう。
そして、その道を共に歩むように招かれます。
マルコは、イエス十字架後にこの世界に降られた神の御霊、聖霊降臨を体験し、新しい命の世界を生きています。
そのうえでこの福音書を書いているのですから書かれていることは真実です。
●36節.人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
●37節.自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
全世界を得るとは、世界を支配することです。
自分の利益だけを考えてこの世を生きて世界を支配することができても、その人は長くて100年もすれば死に、せっかく苦労して得たものもあの世へは持っては行けません。
神の誘いを受けているのに、この世を神を無視して生きた結果、そのあとで永遠の命を得るための代価はどれほどのものかということでしょう。
100年近くの幸せと、それから後の永遠の幸せのどっちが得ですか、と問われているのだと思います。
まさにこの福音書が執筆されている時代の迫害の中を生きる信徒たちを励まし、組織を引き締める意味を込めた言葉だと思います。
なお、ここの聖句だけを読めば、救い(永遠の命を得ること)はこの世で神を、イエスの言葉を信じた場合のみに限られるように見受けられますが、聖書全体からみると、決してそうではないと思います。
わたしはセカンドチャンスがあると考えています。
この個所の「自分の命を失ったら」の命にしてもこの世での命のみをさすのか疑問です。
37節などは、逆に言えば、来世においても代価を払えば永遠の命を買い戻せるということでしょう。
わたしはこの個所の聖句は、この福音書を生みだした共同体の置かれた信仰的にも組織的にも厳しい状況が大きく影響していて、誇張している面があると思います。
聖書は、救いについて信じる者のみ救いに与れるとみられるところと、全部の人たちが当然救われるとみられるところとがあります。
イエスの十字架は、全人類を罪から救うための神のみ業です。
神が御子イエスを十字架に架けられたのは、神のわたしたちに対する無償の愛です。
そして、神の罪の許しは絶対的で、そこに差別はありません。
憐み深い神は、弱い人間を差別するような姑息な神ではありません。
●38節.「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
今はアダムから続く神に反逆する罪深い時代です。
神がイエスによって最終的な人類救済の業を成し遂げようとされているこの時に、そのイエスを殺そうとする者がいる。
激しい迫害の中で、信徒たちは、イエスを告白するか否認するかが来るべき栄光に与るか否かを決めることになることを教えられて、多くの信徒が文字どおり命をかけてこの御言葉に従いました。
マルコの福音書第9章
●1節.また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
今ここに一緒にいる弟子たちの中には、迫害の中で殉教する者も多いが、ある者はその生存中に「神の国」が栄光の中に現われるのを見ることになるということだと思います。
この「神の国」と言うのは、神の支配のことですから、イエスの出現によりイエスの中に聖霊が下り神の国は到来し、イエスが十字架で亡くなられ復活され天に昇られた後イエスに降った同じ聖霊が弟子たちにも降り(使徒言行録2章)
弟子たちの中に神の国が到来し、この世に神の支配(神の国)が到来したのです。
「神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは」というのはそのときのことを語っておられるのでしょう。
ということで、神の国の到来は、イエスの再臨の時ではないと思います。
« ベトサイダで盲人をいやす(マルコ8章) | トップページ | イエスの姿が変わる(マルコ9章) »
「共観福音書を読む」カテゴリの記事
- 弟子たちに現れる(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(2)(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(1)(ルカ24章)(2018.07.21)
- ヘロデから尋問される(ルカ23章)(2018.07.19)
- 財布と袋と剣(ルカ22章)(2018.07.19)
コメント