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2018年3月19日 (月)

金持ちの男(1)(マルコ10章)

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第19章16節から30節/ルカの福音書第18章18節から30節です。

この箇所は、簡単のように思っていたのですが、始めて見ると大切なところが多く長くなりましたので三回に分けます。

(1)では21節までを読みます。

●17節.イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

この人はひざまずいてイエスに尋ねています。

このような態度はたんなるラビ(律法の教師)に教えを請う姿ではなく、プライドを捨ててすがってきたという感じですから、自分の人生の答えを求めてイエスの前に跪いたのでしょう。

もともとイエスはラビではありません。

正式の律法の教師になるために必要な年限の神学教育をラビのもとで受けられたというような記録はないと思います。

それではなぜ彼はイエスの前に「善い先生」と呼んで、ひざまずいたのでしょうか。

やはり、イエスは働く神の霊、聖霊の充満の中におられたので、人を圧倒するようなカリスマというか、権威といいますか、そういうオーラーがあったのだと思います。

彼がイエスに求めたのは、「永遠の命を受け継ぐ」方法ですから、確かに人生の究極の問題です。

とくに神の民であるイスラエル人にとっては、神が約束してくださっているものを「受け継ぐ」ことこそ最大の関心事であったと思います。

「永遠の命を受け継ぐ」というのは、「神の国に入る」ことと同じで、終わりの日の祝福を指すことになると思います。

「何をすればよいのでしょうか」と言っていますから、彼は自分が何かをすれば神の国に入れると思っているのですね。

イスラエルは、モーセ律法に定める行いをもって神の国に入れるとされていましたので、そのような質問になったのでしょう。

「善い先生」という呼びかけもそのことを表しています。

典型的なユダヤ人です。目的に到達するためには何を為すべきかだけを問うているのです。

仏教徒であれば悟りを求めるためには何をすべきかを求めるでしょうから、それと同じですね。

●18節.イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
イエスはご自分に向けられた「善い先生」という呼びかけに対し、神を持ち出されます。

そして、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と応じられます。

イエスは自分を「善い」とすることを拒まれます。

神だけを「善い」として、ご自分を含めて人間にも善い者は誰もいないと言われます。

●19節.『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

この掟は、モーセの十戒の中の人間関係に関する戒めです。

何を為すべきかを問うのであれば、こうして、預言者モーセを通して神は答えを与えておられます。

ここに上げられている六つの戒めは、モーセの十戒の倫理的な部分を、順序は違っているが引用したものです。
律法の中でも最も基本的な戒めですから当然イスラエル人なら誰でもが知っているはずです。

●20節.すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

「子供の時から守ってきました」というのは、この人はユダヤ人ですから律法としてのモーセの十戒は当然のこととして守ってきたのでしょう。
それは自分の努力で、自分の意志で守ってきたのです。

彼はそれによって、永遠の生命を受け継ぐことができると教えられて生きて来たのでしょう。

確かにモーセの十戒は神の戒めですが、永遠の命はそれを守ることによって受け継げるようなものではないのです。

善いとか悪いとかの次元のことではないと思います。

救いは神の無償の恩恵ですから、彼がその立場(行いで救われるという立場)にとどまるかぎり、どのように熱心に努力しても、永遠の生命を受け継ぐことはできません。

彼はそのことをよく知っているから、確証がなかったから17節の「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」という質問をイエスにしたのでしょう。

●21節.イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

ここの解釈は「わたしに従いなさい。」をどのように解釈するかで違ってくると思います。

というのは、今の生活のすべてを捨ててイエスと共に神の国の宣教に携わるという意味でわたしに従いなさいといわれているのであれば召命であり、そうでなければ、わたしの言葉を信じてわたしに自己を委ねなさいと言われていることになると思います。

ここは生前のイエスに直接「行って持っている物を売り払い、・・わたしに従いなさい」と言われていますから、やはり召命だと解釈したいと思います。

並行個所のルカの福音書18章22節には「すべて売り払い」とあり、マタイの福音書19章21節には「・・もし、完全になりたいのなら」とありますから、やはり召命だと思います。

完全になるためには、自分の努力とか能力ではだめなのです。

自我を捨てて神の御霊に自己を委ねて生きるしかありません。

もちろん、自我を捨てるのも自分の努力だけではできませんから、神の御霊、聖霊にゆだねることになります。

イエスの弟子たちはイエスと寝食を共にしていましたから全てを捨ててついていっています。

それに、当時イエスに従って新しい教えの宣教ためについていくのならば、ユダヤ教神権国家という厳しい環境であれば、片手間ではイエスについていけません。なおさらすべてを捨てて従う必要があったと思います。

ユダヤ教という神権国家で新しい教えを述べ伝えるためには、それだけの覚悟は必要でしょう。

イエスが十字架に付けられたのも、その覚悟の結果ですからね。

彼は神の道を真剣に求める人でしたから、イエスは慈しんで彼にこのような言葉をかけられたのでしょう。

わたしに従えば永遠の命を与えよう。そのためには、すべてを捨てて弟子として付いてきなさい、とイエスは彼にご自分に従う覚悟を求められたのだと思います。

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