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2018年3月 6日 (火)

汚れた霊に取りつかれた子をいやす(1)(マルコ9章)

聖書箇所は、マルコの福音書第9章14節から29節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第17章14節から20節/ルカの福音書第9章37節から43節です。投稿文は二回に分けて、(1)では19節までを読みます。

マタイの福音書では汚れた霊は悪霊となっています。

通常天使は人間に取り付きませんから、汚れた霊というのは人間の霊のことだと思います。マルコの福音書に沿って見ていきたいと思います。

マルコの福音書第9章
●14節.一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。

イエスの変容の出来事(マルこの福音書9章2節から、「イエスの姿が変わる」)の後、イエスは山から降りてきました。

イエスが山から降りてくると、同行していた三人の弟子たち以外の残ったほかの弟子たちは大勢の群衆に取り囲まれてユダヤ教の律法学者らと議論していました。

その議論の内容は、霊に取りつかれた子を癒すことができなかった残ったほかの弟子たちの信仰を律法学者たちが批判したことから起こった議論でしょう。おそらく、弟子たちは必死に弁明していたのでしょう。

●15節.群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。

そのようなところに、イエスは山から下りてこられます。

「非常に驚き」というのは、山上でイエスの身に起こった変容の出来事の後ですから、おそらく群衆は山から下りてきたイエスの姿に何か異様な雰囲気、つまり、神秘的なものを感したのでしょう。

なお、別の説として、弟子たちが子供を癒せなかったのは、イエスがおられないことを理由にして律法学者たちに反論していたので、イエスを見つけて非常に驚いたという説明もありますが、驚いたのは「群衆は皆」となっていますからそれはないと思います。

●16節.イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、

●17節.群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。」

弟子たちが癒すことができなかった、汚れた霊に取り憑かれた子が親に連れられてイエスのところに来ました。

●18節.霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。

霊に取りつかれた子供の状態は、とても見ていられない悲惨な状態でした。

まさに、イエスがおられないところでは、悪霊の力が支配するという現実です。

弟子たちも批判する学者たちもこの子供に取りついている悪霊を追い出すことができなかったのです。

●19節.イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

イエスは、マルコの福音書第8章12節でも、「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」と言われています。

終わりの日に聖書に約束されたメシヤが来て、約束された御霊が与えられます。それはまさしく神の約束です。

見る目があればその神の約束がイエスによって、今、実現しているのを見ることができるのに見る目がなかったので、イスラエルは見ることができなかったのです。

それに彼らは神を横に置いて宗教論議ばかりをしていました。もう、議論の時ではないのです。間違った信仰に陥っていたのです。

そのような状態を見てイエスは、「なんと信仰のない時代なのか。」といって嘆かれたのです。

イエスにとって信仰とは人間が現実に神と関わる事態ですから、言葉をいくら重ねても出る結論ではないのですね。

イスラエルは、何度も神の顕現を経験し、預言という形で導かれ、そのようにして神の力を体験していても、信仰から遠ざかり、過去の体験とその伝承について議論するだけで、そう、形だけの信仰を尊ぶだけの民になっていました。イエスの時代にはこの傾向は極限にまで達していました。

法学者たちは神の信実を語るのではなく、先祖の言い伝え(伝承、モーセ律法に後から付け加えた律法の細則みたいなものだと思います。)について際限のない議論を繰り返し、その議論の結果を理解して遵守することを義とし、それができない一般の民を罪人として断罪していました。

「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。」と言うのは、イエスはいつまでも地上におられるわけではない。やがて天に昇られる時が来ます。

その時には、救いの機会を逃したイスラエルは自ら招いた不信仰の中に、すなわち滅びの中に放置されることになるのです。

19節のイエスの言葉には、イスラエルに対するイエスの深い憐れみがにじみ出ています。

そして、おなじように深い憐みの中で「その子をわたしのところに連れて来なさい。」と言われます。

この子供の異常な状態の原因は、背後に悪霊の働きがあるからだと、イエスを含めて当時の人々は理解していました。

医学が進歩した現在を生きるわたしたちは、そのような症状が科学的な原因があって起こると理解しますが、しかし、現在においても、科学的な原因だけでは説明できない病が多々あるのも事実です。

そして、この場合は、その症状が悪霊に対するイエスの命令の言葉(25節)によって現実に癒されたことをみると、やはり悪霊の仕業なのでしょう。

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