イエスの姿が変わる(メシヤの秘密)(マルコ9章)
聖書箇所は、マルコの福音書9章9節から13節です。
共観福音書の並行個所はマタイの福音書17章1~13節/ルカの福音書9章28~36節です。
●9節.一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
イエスが、いくら力ある業(奇跡とかしるし)を行い、権威ある教えをしても、群衆にとってイエスは預言者のひとりです。
弟子たちにとっては、ユダヤ人の描く、ユダヤ人のための救い主でしかなかったと思います。
いま、この出来事を群衆に話しても誤解されるだけです。
イエスが神の御子であることは、やがて、イエスが死者の中から復活されたという事実によって、最終的に全人類に証明されることになります。
そして、聖霊降臨の出来事が起こり、聖霊がそのことを証します。
それまでは、何を言っても無駄です
人間は、イエスの死からの復活という現実に出会い、聖霊の力を借りなければ、いかなる教えも解説も的外れになるということでしょう。
だから、イエスは、ご自身が復活されるまでは、この出来事をだれにも話してはならないと命じられたのでしょう。
それでも、イエスはその日に備えて教えるべきことは教えようとされます。
その日に備えて教えられたことは、その日に聖霊が働かれることによってその言葉の真理を弟子たちに悟らせるのです。
イエスはこれまでにもしばしば、イエスの栄光(力ある業、つまり、奇跡など)を見た者に、それを人に語らないで秘密にしておくように命じられましたが、その意味は上記のとおりだと思います。
一言でいえば今はその時期ではなかったのです。
何事にも神の時があるのです。
わたしはマルコの福音書第4章11節の「そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」と言われたイエスの言葉は、ここで弟子たちに語られた秘密(奥義)のことも含まれているのではと思うのです。
●10節.彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
この「心に留めて」というのは、当然だが弟子たちには、今体験した事態とか、「死者の中から復活」すると言われても、それがどういう事態かわからなかったでしょう。
しかし、重大なことを言っておられるのはよくわかったので、とりあえず、自分たちだけで秘密として心に留めておこうということではないでしょうか。
弟子たちはこのあと、山上で見たイエスの「人の子(神の子)」としての栄光(3節・7節)や、苦しみを受ける「人の子」についての教えなど、彼らだけに示された秘密を誰にも洩らすことはなかったようです。
このようにみると、イエスの宣教には、内輪の弟子だけに語られた教えや、秘密の啓示というのがあったのですね。
これがマルコの福音書第4章11節のイエスの言葉「あなたがたには神の国の秘密(奥義)が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」と言われたことだと思います。
そういう内輪の弟子たちだけに語られていた奥義(秘密の教え)があったから、実際にイエスの十字架の死と復活の出来事、そして、聖霊降臨があったとき、弟子たちはその出来事を本当の意味で理解することができたといえます。
そして、弟子たちは確信を持ってイエスの十字架死と復活の意味を全世界の人々に述べ伝えることができたのだと思います。
それは弟子たちに限らず今を生きるわたしたちにも言えることだと思います。こうしてみると、キリスト教はイエス・キリストの言葉と出来事の意味を聖霊体験を持って知り、それを証する宗教ということでしょう。
また、イエスの変容とモーセとエリヤの出現は、イエスが異次元の存在で、イエスの復活顕現と死者の復活を予兆するといえます。
●11節.そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
旧約聖書マラキ書3章23節には、「主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちにつかわす」と預言されていますので、もしイエスの身に死者からの復活が起こるとすれば、すでにエリヤが来ていなければならないはずだが、これはどう理解すればよいのかという律法学者の質問でしょう。
●12節.イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
●13節.しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
イエスもエリヤに関する聖書の預言を認められています。
そして、ここで初めて、「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」のは、聖書に書かれていることの成就であることが明らかにされています。
は、既にエリヤが来たと言われています。
それは、おそらくヘロデによって処刑された洗礼者ヨハネこそエリヤであると言われているのではないでしょうか(13節)。
ほかには見当たりませんからね。
その洗礼者ヨハネを再来のエリヤと人々は認めないで、好きなようにあしらったが、人の子も同じように苦しみを受けることになる、ということでしょう。
すなわち、洗礼者ヨハネの苦難は、人の子の受難の先駆けであると言われています。
なお、ルカの福音書はこのエリヤについての問答を一切省略しています。
12節の、「まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。」というのは、モーセによってシナイ山で神と結ばれた契約(十戒を含む律法)の真の回復のことを指しているのだと思います。
それは、マタイの福音書第5章17節にあるように「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」とある通りです。
どのようにして、律法が成就されるのかはここでは省略します。
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