逆らわない者は味方(マルコ9章)
聖書箇所は、マルコの福音書第9章38節から41節です。
共観福音書の並行個所は、ルカの福音書第9章49節から50節です。
●38節.ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
このヨハネの発言は、自分たちのグループに所属しない者がイエスの御名により悪霊を追い出しているので、その者たちにイエスの名による霊的活動をやめさせたいとイエスに述べたものです。
わたしたちは正統派で、その者たちは異端だと言いたかったのでしょうか。
所属するグループが何であれ、イエスの御名を、イエスの言葉を信じるものであればイエスの弟子です。
そうであるから、イエスの御名によって悪霊を追い出すことができたのだと思うのですが、この福音書を生んだ共同体の中で正統か異端かの問題が起こったのかも知れません。
●39節.イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
●40節.わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
この箇所は、39節の「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」、40節の「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」というイエスの言葉をどのように解釈するかでしょう。
40節は39節の説明と考えると、やはりここも正統か異端かの対立を問題にしているのではないでしょうか。
キリスト教界の歴史は、イエスの名による他の人々の活動を、自分たちに所属しないという理由で異端のレッテルを貼り、弾圧してきました。
いわゆる教団の権威、教派の権威、聖職者の権威、教会の権威という権威主義です。
イエスの御名を自分たちの権威に用いて人々を治めたのです。
ここでイエスは、イエスの名によって行なわれるそれぞれの活動を、自分たちに所属しないゆえに敵視するのではなく、すなわち、異端扱いするのではなく、お互いに自分たちの味方であるとする態度で受け入れ合うことが求められています。
ましてや、イエスの名により悪霊を追い出しているのならばその者にはキリストの御霊が宿っているからではないかということでしょう。
自分のグループに属さなくても、イエスの名のための活動をする者は、自分に味方するものとして受け入れることをイエスは求めておられるのです。
これこそ、イエスの弟子にふさわしい姿勢だと思います。
自分たちのグループ(教団・教派・教会・共同体)そして自己の信仰の在り方を絶対化しないことが、キリストの民の一致の出発点であり土台だと思います。
●41節.はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
この聖句の並行箇所であるマタイの福音書第10章42節では、「わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人」と表現しています。
彼はキリストの弟子で、取るに足りない小さい者であるが、キリストの弟子というだけで、困っている時にささやかでも手を差し伸べる者は、キリストの弟子に約束されている祝福を、かならず神から受けることになる、ということでしょう。
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