フォト
2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

カテゴリー

« 逆らわない者は味方(マルコ9章) | トップページ | 離縁について教える(1)(マルコ10章) »

2018年3月12日 (月)

罪への誘惑(マルコ9章)

聖書箇所は、マルコの福音書第9章42節から50節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第9章6節から9節/ルカの福音書第17章1節から2節です。

●42節.「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

イエスは人につまずきを与える者を問題にされています。

それでは、「小さい者をつまずかせる」とは具体的にどういうことでしょうか。

「わたしを信じるこれらの小さい者」とありますから、この「わたしを信じる」に焦点をあて、「つまずかせる」とは信仰をつまずかせることだと思いますので、具体的には、イエスへの信仰を妨害したり、信仰から引き離したり、あるいはそのきっかけとなる行為をしたりするということでしょう。

「小さい者」というのは、36節の説明で書いたように、この世で無視されている頼るべき何ものも持たない無力な者とすれば、そういう者を「つまずかせる」とは、それらの者にとって唯一の救いである信仰、他にすがるべきものがなく、イエスに対する信仰に必死にすがっているのに、その信仰をつまずかせるようなことをする者は、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と言えるほど、その者にとって重大な結果を、相応の裁きを招くだろうといわれているのでしょう。

●43節.もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。

「つまずかせる」内容は、小さい者、つまり無力な貧しい者の信仰を妨害する行為ですが、それでは、手や足や目が人の信仰をつまずかせるとは具体的にどういうことでしょうか。

手や足や目は何をたとえているのでしょうか。

くわしくは45節以降で考えてみたいと思います。

「地獄の消えない火の中に落ちるよりは」の地獄《ゲヘナ》にたとえられているのは、エルサレム南西にある「ベン・ヒノムの谷」から来たギリシャ語で、その谷では、王国時代に子供を焼いてモレクに捧げるという忌まわしい祭儀が行なわれ、預言者から「殺戮の谷」と呼ばれて呪われていたと言うことです(エレミヤ7・31~34)。

イエスの時代にはこの谷は汚物を焼き捨てる場所となり、ユダヤ教では劫火が燃える永劫の処罰の場所を指すようになった、ということです。

●44節. 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

43節のところに書いた、「ベン・ヒノムの谷」の様子から生じたイメージだと思います。

それはそうと、イエスはこのような人間が勝手に想像した地獄の様相をそのまま用いておられるのですね。

当時の人たちに説明するのに、わかりやすいというメリットがあるからでしょうか。

地獄は実際にそう言うところだと解釈する方がおられますが、イエスが地獄を詳しく解説されたところは聖書にはないと思います。

こうしてみると、この箇所でのイエスの言葉は、地獄に陥ることの恐ろしさを真剣に取り上げておられると見るのが正解だと思うのです。

聖書では、神の国に入ることの大切さを取り上げていますから、地獄の恐ろしさはその裏側と言えますから、当然のことです。

聖書から推測される地獄とは、神との交わりから断ち切られる事態を言うのだと思います。

被造物が創造主の御心から限りなく遠ざかることは絶望であり、地獄です。

それでも、地獄から神の愛が全く無くなることはないと思います。

地獄も神が作られた場所です。神が作られた場所なら、そこにも神がおられ、支配されている場所です。

それに神は無限に赦され、愛される方ですから、地獄にも救いはあると思うのです。

●45節.もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。

●46節.地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

●47節.もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。

●48節.地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

43節では「片方の手のつまずき」でしたが、ここでは、さらに足と目を取り上げて「命にあずかる方がよい」とさらに強調されています。

なお、手とか足とか目がつまずきになったからといって、それらを実際に切り捨てろとは言われていないと思います。

本当に文字通りに解釈されたとするならば、イエスの言葉を信じた人達は片輪ばかりとなります。

それに、手や足を切り捨て、目をえぐり出したとしても、つまずきがなくなるわけではありません。

「つまずき」については先にも書きましたが、イエスへの信仰を妨害したり、信仰から引き離したり、あるいはそのきっかけとなる行為をしたり、罪を犯させることですが、それでは、そのことと手や足や目とどのように関係するのでしょうか。

結論として、信仰によって父なる神との交わりの中にとどまることは、五体満足で健康な体を維持することよりも、はるかに真剣で重要な問題であると言っておられるのでしょう。

これはある意味当然です。なぜなら、キリスト信仰はこの世と来世の在り方を、われわれ被造物の在り方を問うものですが、この肉体はこの世だけのものですが神との交わりは来世にも及ぶ永遠のことです。


なお、各福音書でここの用い方が違うので比べてみますと、マルコの福音書の片手を切り捨てよとか、片目をえぐり出せという表現は、イエスを信じる小さい者をつまずかせる者に対する厳しい警告(マルコの福音書第9章42節)の後に続けています。

マタイもマルコに従って同じ文脈、ほぼ同じ用語で、手足を切り捨て目をえぐり出せという表現を用いています(マタイの福音書第18章6節から9節)。

ルカに並行箇所がないので比較できません。

●49節.人は皆、火で塩味を付けられる。

旧約聖書では、塩は生贄の肉が腐るのを防ぐもので、きよめの働きをします。日本でも同じ使われ方をしています。

「火」は使徒言行録2章の聖霊降臨のところで聖霊の象徴として使われているように神の霊、聖霊を表すと思いますので、「塩味」とは、聖霊の火で塩つけられ清められた信仰のことだと思います。

人は、神から賜る聖霊の火で塩づけられて清められなければ地獄に落ちるしかないのです。

人が腐敗から守られて神に捧げられる清い供え物となるには、火を用いるのです。

そして、その火である聖霊は、神から離反して罪の状態にある生まれ持った人間には備わっていないので、神から賜るしかないのです(ルカの福音書/111章13節ほか)。

聖霊だけが人を腐敗から守り、人を聖なる神への供え物とするのです。

すなわち、神の子とするのです。

「腐敗」とは、神から離反することにより生じる罪が罪を生む状態をいうのだと思います。

イエスの弟子は「地の塩」であることを期待されています(マタイの福音書第5章13節)。

イエスの言葉を信じる者は、聖霊の火によって塩つけされ清められて、「地の塩」となって、人類を腐敗から守るのです。

●50節.塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

もし塩自身がその持ち味である塩気をなくしたら塩ではなくなるように、キリストにある者が信仰を失ったら、つまり、聖霊を失ったら、何によって腐敗から我が身を守り、人類を守ることができるでしょうか、ということでしょう。

イエスはわたしの言葉を信じる者は、世がさらに腐敗するのを防ぐために働きなさいと命じられていると思うのです。

そのためには、まず、「自分自身の内に塩を持ちなさい」と言われているのですが、それは、自分自身に聖霊によって清められた塩けがあるかどうかを、いつも注意して確かめなさいと言われていると思います。

そして、だれが一番偉いかなどと内輪もめをしないで、また、同じイエスの言葉を信じる者を、グループが違うからといって仲間はずれにして争わないで、「互いに平和に過ごしなさい。」と言われていると思います。

« 逆らわない者は味方(マルコ9章) | トップページ | 離縁について教える(1)(マルコ10章) »

共観福音書を読む」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 罪への誘惑(マルコ9章):

« 逆らわない者は味方(マルコ9章) | トップページ | 離縁について教える(1)(マルコ10章) »