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2018年3月12日 (月)

いちばん偉い者(マルコ9章)

聖書箇所は、マルコの福音書第9章33節から37節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第18章1節から5節(天の国で一番偉い者)/ルカの福音書第9章46節から48節です。

●33節.一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。

イエスと弟子たちの一行は、イエスが変容された山を下ってから、人々に気づかれないようにガリラヤを通ってカファルナウムに帰ってこられたのでしょう。

カファルナウムはガリラヤ湖畔の町でイエスたちの活動の拠点でした。

イエスはエルサレムに向かう最後の旅においては、群衆ではなく弟子たちだけに語られました。

受難への準備にはいられたのでしょう。

それでも、弟子たちはイエスの心も知らず、とんちんかんな議論をしています。イエスは弟子たちが何を話していたのかを察知して「途中で何を議論していたのか」と尋ねます。

並行個所のルカの福音書第9章47節には「イエスは彼らの心の内を見抜き、・・」となっています。

●34節.彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。

弟子たちはイエスの問いかけに黙っていました。

黙っているのは、自分たちの話していることが師であるイエスの思いとかけ離れていることがなんとなくわかっていたからでしょう。

イエスはこの旅の途中で、何度もこれから起こるご自分の苦難(辱めと十字架死)を予告しておられましたが、弟子たちはイエスの言葉を理解することができなかったのです。

いや、その事実を知るのが怖くて理解しょうとしないで、全然違ったことを期待していたのかも知れません。

どちらにしても、弟子たちの心は、イエスの心とは別の道を歩んでいたのです。

弟子たちは、神の国を求めたのではなく、自分たちの国を求めていたのです。被支配者から支配者になりたかったのです。

●35節.イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

「イエスは座り、十二人を呼び寄せ」ですから、イエスは改まった態度でこれから重要な事柄を語ります。

この節は、マタイとルカの福音書にも同じような個所がありますので、イエスの重要な言葉であるのでしょう。

「・・・あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」というのが、「誰がいちばん偉いか」という問いに対する神の答えです。

神の前で人間の偉大さを測る物差しです。

人間の偉大さは、どれだけ多くの人や物を支配するかではないのです。

どれほど能力があっても、自分を小さく低くして、その能力でどれだけ多くの人に仕え、どれだけ多くの人のために有効に役立たせることができるかということでしょう。

●36節.そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。

イエスは一人の子供を抱き上げて語られます。

この子供と言う語句は、無邪気さとか純粋を表しているのではなく、「小さい者」すなわち、社会から価値のないものとして無視されている者、とるに足りない者を象徴して使われていると思います。

●37節.「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

イエスは、わたしの名のために、小さい者(36節で子供に喩えられた小さい者)を受け入れなさい、それに仕えなさい、と言われます。

そして、大事なのは、その「小さな者」を受け入れるのはイエスご自身を受け入れることであり、イエスを受け入れることは、神ご自身を受け入れることなのであるといわれているのでしょう。

「小さな者」を受け入れるというのは、ほかの箇所で言われている実践訓である隣人を自分のように愛しなさいとか憐れみの心で人と関わりなさいと同じことを言っているのでしょう。

「わたしの名のために」というのは、ほかに何の理由がなくても、イエスがそうすることを望まれるからという理由だけで、あるいは、「小さい者」がイエスに属する者であるからという理由だけで、その者を受け入れることを指しているのでしょう。

「受け入れる」と言うのは、なんの条件も理由もなしに「小さい者」にイエスがされたようにすることを言っているのでしょう。

そうすることが、イエスをイエスの名によって自分の中に迎え入れていることになるということでしょう。
これは重大な宣言です。

ということは、神を自分の中に迎え入れ、神と共に生きることは人間の究極のあるべき姿ですから、そうであれば、当然「小さい者」を受け入れることができるはずだということでしょう。

神と共に生きる者というのは、聖職者ではなく、特定の宗教に精進してその奥義を究めた者でもなく、イエスの名によって「小さい者」を受け入れて生きる者であると言われているのです。

日常の生活の場で「小さい者」と苦しみを分かちながら共に生きている名もなき「小さい者」たちを神は歓迎されているのです。

なお、並行箇所であるマタイの福音書の第18章3節・4節のイエスの言葉「言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」も同じことを言っていると思います。

ここの「子供のようになる」というのは、先にも書きましたが、無邪気さとか純粋さを指しているのではなく、自分を無(自我を捨て)にして父なる神の恩恵に自己を委ねて生きる生き方を指しているということです。

同時にそれは信仰のあるべき姿であって、そういう人が、天の国でいちばん偉大な者になるのです。

わたしは思うのです。わたしのように欲深くて、自己中心的な人間はどうなるのだろうと。

自分の努力ではどうしょうもないので、ただ、父なる神の憐れみにすがるしか仕方がない。

天の国で一番偉いものになれなくてもよいのです。

その他大勢のひとりでも、天の国に入れれば良いのです。いやいや、それを決められるのは神様で、わたしではありませんね。

このようなことを言っていれば、何を生ぬるいことを言っているのだ、といって神様に叱られるかもしれません。

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