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2018年3月の記事

2018年3月25日 (日)

枯れたいちじくの木の教訓

聖書箇所は、マルコの福音書11章20節から26節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書21章20節から22節です。

●20節.翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。

マタイの福音書は、イエスの呪いの言葉の後すぐにいちじくの木が枯れたことになっていますが、ここでは翌朝になっています。

なぜ違うのか理由はわかりませんが、文書の構成上そのようになったのでしょうか。

それとも、マタイの福音書の方が後でできましたので、マタイがマルコを訂正したのでしょうか。

どちらにしても、いちじくの木はエルサレムを指していますので、いちじくの木が枯れたのは、イスラエルに対する神の裁きが決定的になったことを象徴的に表しているのでしょう。

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いちじくの木を呪う

聖書箇所は、マルコの福音書11章12節から14節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書21章18節から19節です。

●12節.翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。

この空腹はたんにお腹が減っただけなのか、それとも霊的な飢え渇きを指すのでしょうか。

次節にいちじくの実を探しておられたのならば、お腹が減ったということなのでしょう。イエスも人間ですから、お腹もすきます。

●13節.そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。

●14節.イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

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エルサレムに迎えられる

聖書箇所は、マルコの福音書11章1節から11節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書21章1節から11節/ルカの福音書19章28節から40節です。

マルコの福音書は、イエスの受難物語(十字架の刑死)に重きを置いて書かれていると思います。

いよいよ、イエスの伝道活動の最盛期を迎え、十字架死に向けて福音書も最終場面です。

●1節.一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、

イエスはいよいよユダヤ教の本拠地エルサレムに入られます。

弟子を使いに出しそのための準備をされます。

ベタニヤはエルサレムの東三キロほどのところ、ベトファゲはベタニヤよりさらにエルサレムよりの位置にあるということです。

エルサレムから三キロの地ですからエルサレムはもう目と鼻の先です。

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2018年3月23日 (金)

盲人バルティマイをいやす

聖書箇所は、マルコの福音書第10章46節から52節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第20章29節から34節(二人の盲人をいやす)/ルカの福音書第18章35節から43節(エリコの近くで盲人をいやす)です。

●46節.一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子でバルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。

調べてみると、エリコの町はサマリヤを通らずにヨルダン川の東側を通ってエルサレムに入る道を選ぶときに通るところで、エルサレムから東20キロ程手前だということです。

イエスの一行も「ヨルダンの向こう側」(10章1節)からエルサレムに入ろうとして、エリコを通過されたのでしょう。
イエスのエルサレムへの最後の旅も、いよいよ終わりに近づきました。

「大勢の群衆と一緒」というのは、イエスを偉大な預言者と信じて、イエスがエルサレムに入られると何か大変なことが起きるのではないかという期待に興奮して、イエスと一緒にエルサレムに向かって行進している群衆のことでしょう。

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ヤコブとヨハネの願い

聖書箇所は、マルコの福音書第10章35節から45節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書第20章20節から28節です。

●35節.ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」

●36節.イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、

●37節.二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

イエスはエルサレムへの旅の途上で三度もご自分の受難を予告をされたのですが、そこに奥義が秘められていることを理解せず、自分たちが考えているメシアとしてのイエスに期待をかけていました。

彼らのメシアは、神の力により異教徒(ローマ帝国)の支配を打ち破り、自分たちはメシアイエスと共に神の民として復活したエルサレムを支配する栄光の座につくはずであったのです。

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2018年3月20日 (火)

金持ちの男(3)

「金持ちの男」の最終回です。
聖書箇所は、マルコの福音書第10章27節から31節です。

●27節.イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

イエスのなされた奇跡、理解が困難なイエスの言葉の理由がここでは語られています。

そうですね、天地万物を創造された神様なら、たしかに何でもで出来る方です。

その神様とイエスが一体ならばイエスには何でもできます。

しかし、その神様は人間にとって最大の問題は自己中心性であることはわかっているのに強引に変えようとはされません。

神様は人間に自由意思を与え、個人の人格を大切にされ、神様中心に生きるか自己中心に生きるかを選択する自由意思をあくまでも尊重されているのです。

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金持ちの男(2)

「金持ちの男」の二回目です。
聖書箇所は、マルコの福音書第10章17節から31節の22節から26節までです。

●22節.その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

この聖句を読むと、やはりイエスはイエスと共に神の国の宣教に携わるように彼を召されたのだと考えられます。いわゆる召命です。

彼は、イエスを尊敬していましたが去っていきました。

イエスの召命の前に、立ち去ることは致命傷です。

彼は真剣に道を求めていたのでしょうから、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。

きっとその悲しみは、富を捨てきれない、イエスの求めに応じられない自分に対する悲しみなのでしょう。
イエスは、わたしたちの弱さをよくご存知です。

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2018年3月19日 (月)

金持ちの男(1)

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第19章16節から30節/ルカの福音書第18章18節から30節です。

この箇所は、簡単のように思っていたのですが、始めて見ると大切なところが多く長くなりましたので三回に分けます。

(1)では21節までを読みます。

●17節.イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

この人はひざまずいてイエスに尋ねています。

このような態度はたんなるラビ(律法の教師)に教えを請う姿ではなく、プライドを捨ててすがってきたという感じですから、自分の人生の答えを求めてイエスの前に跪いたのでしょう。

もともとイエスはラビではありません。

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子供を祝福する

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第19章13節から15節/ルカの福音書第18章15節から17節です。

マルコの福音書第10章。
●13節.イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。

イエスは病人や病気の箇所に触れて病気を癒されました。

それで病気に苦しむ人々は今や癒しの奇跡で有名となっていたイエスが来られたと聞き、イエスに触ろう、触れたら病気が癒されると思って集まってきたのでしょう。

親はいろいろなところに子供を連れて行って、病気を治そうと努力したのでしょう。

それでも子供の病気は癒されなかった。藁にもすがりたいその気持ちはよくわかります。

イエスに触れば病が癒されると信じていたのです。

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2018年3月15日 (木)

離縁について教える(2)

聖書箇所は、マルコの福音書第10章1節から12節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第19章1節から12節です。

ここ(2)では、9節から読みます。

●9節.従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

二人の出会いが創造のみわざの中での出来事ならば、人間がその出会いを壊すようなことはしてはならない。
それは創造の秩序を壊すことになるからだということでしょう。

創造者が結び合わせたものを壊すのは、人間の自我というか自己中心性です。

相手に対する思いやりのない自己主張が、二人の心を引き離し、それがだんだんと二人の共同の生活を困難にし、ついには別れざるをえないようにさせるのではないでしょうか。

●10節.家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。

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離縁について教える(1)

聖書箇所は、マルコの福音書第10章1節から12節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第19章1節から12節です。

二回に分けまして(1)では8節までを読みます。

●1節.イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆が集まってきたので、イエスは再びいつものように教えておられた。

「群集がまた集まってきたので」ということは、ヨルダン川の向こう側(東側)に行かれたが、そこでもいつものように飼う者のない羊のような群衆がイエスの噂を聞いて集まってきたということでしょう。

そして、イエスはここでも群衆を憐れみ、「神の国」の教えを説かれます。

イエスは十字架死を目前にして、それまでのしばしの間エルサレムから離れた比較的安全な所で弟子たちと過ごされたのでしょう。

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2018年3月12日 (月)

罪への誘惑

聖書箇所は、マルコの福音書第9章42節から50節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第9章6節から9節/ルカの福音書第17章1節から2節です。

●42節.「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

イエスは人につまずきを与える者を問題にされています。

それでは、「小さい者をつまずかせる」とは具体的にどういうことでしょうか。

「わたしを信じるこれらの小さい者」とありますから、この「わたしを信じる」に焦点をあて、「つまずかせる」とは信仰をつまずかせることだと思いますので、具体的には、イエスへの信仰を妨害したり、信仰から引き離したり、あるいはそのきっかけとなる行為をしたりするということでしょう。

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逆らわない者は味方

聖書箇所は、マルコの福音書第9章38節から41節です。

共観福音書の並行個所は、ルカの福音書第9章49節から50節です。

●38節.ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

このヨハネの発言は、自分たちのグループに所属しない者がイエスの御名により悪霊を追い出しているので、その者たちにイエスの名による霊的活動をやめさせたいとイエスに述べたものです。

わたしたちは正統派で、その者たちは異端だと言いたかったのでしょうか。

所属するグループが何であれ、イエスの御名を、イエスの言葉を信じるものであればイエスの弟子です。

そうであるから、イエスの御名によって悪霊を追い出すことができたのだと思うのですが、この福音書を生んだ共同体の中で正統か異端かの問題が起こったのかも知れません。

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いちばん偉い者

聖書箇所は、マルコの福音書第9章33節から37節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第18章1節から5節(天の国で一番偉い者)/ルカの福音書第9章46節から48節です。

●33節.一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。

イエスと弟子たちの一行は、イエスが変容された山を下ってから、人々に気づかれないようにガリラヤを通ってカファルナウムに帰ってこられたのでしょう。

カファルナウムはガリラヤ湖畔の町でイエスたちの活動の拠点でした。

イエスはエルサレムに向かう最後の旅においては、群衆ではなく弟子たちだけに語られました。

受難への準備にはいられたのでしょう。

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2018年3月10日 (土)

再び自分の死と復活を予告する

聖書箇所は、マルコの福音書第9章30節から32節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第17章22節から23節/ルカの福音書第9章43節から45節です。

●30節.一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。

「一行はそこを去って、」、つまり、イエスの姿の変容(同9章2節以降)のあと山から下り、汚れた霊にとりつかれた子供を癒され、ガリラヤを通って一路エルサレムへ行かれる途中のことでしょう。

イエスは山上での変容の際に人の子の奥義を一部の弟子たちに語り、最後の旅である受難の地エルサレムに向かう準備を終わられました。

悪霊の追い出しとか病の癒しは、憐れみのゆえなされたことで、そのことは、イエスがこの世にこられた本当の目的ではないのでしょう。

イエスは静かにそこを去られたかった。その理由はつぎの節にあります。

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2018年3月 7日 (水)

汚れた霊に取りつかれた子をいやす(2)

(1)からの続きです。
聖書箇所は、マルコの福音書第9章20節から29節です。

●20節.人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

悪霊は同じ霊界の存在としてイエスを知っています。だから悪霊はイエスの前でこれ見よがしに自分の力を見せつけます。

●21節.イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。

ここでイエスは、父親に、「・・いつごろからか」と聞かれています。

これはどういう意味でしょうか。

それに、22節には父親が「おできになるなら」と言っていますから、父親はもしかしたら、イエスの力でも癒せないと思っていたのかもしれません。

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2018年3月 6日 (火)

汚れた霊に取りつかれた子をいやす(1)

聖書箇所は、マルコの福音書第9章14節から29節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第17章14節から20節/ルカの福音書第9章37節から43節です。投稿文は二回に分けて、(1)では19節までを読みます。

マタイの福音書では汚れた霊は悪霊となっています。

通常天使は人間に取り付きませんから、汚れた霊というのは人間の霊のことだと思います。マルコの福音書に沿って見ていきたいと思います。

マルコの福音書第9章
●14節.一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。

イエスの変容の出来事(マルこの福音書9章2節から、「イエスの姿が変わる」)の後、イエスは山から降りてきました。

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イエスの姿が変わる(メシヤの秘密)

聖書箇所は、マルコの福音書9章9節から13節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書17章1~13節/ルカの福音書9章28~36節です。

●9節.一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

イエスが、いくら力ある業(奇跡とかしるし)を行い、権威ある教えをしても、群衆にとってイエスは預言者のひとりです。

弟子たちにとっては、ユダヤ人の描く、ユダヤ人のための救い主でしかなかったと思います。

いま、この出来事を群衆に話しても誤解されるだけです。

イエスが神の御子であることは、やがて、イエスが死者の中から復活されたという事実によって、最終的に全人類に証明されることになります。

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2018年3月 5日 (月)

イエスの姿が変わる

聖書箇所は、マルコの福音書9章2~13節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書17章1~13節/ルカの福音書9章28~36節 です。

二回に分けまして、この投稿文は「イエスの姿が変わる」として、マルコの福音書9章8節までを、9章9節以降を「メシヤの秘密」として別に投稿します。

マルコの福音書第9章
●2節.六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、

「六日の後、」というのは、何時から六日かといえば、おそらく「仮庵の祭になって六日後」と思われます。

なぜ六日後かと言いますと、5節でペトロが「小屋を三つ建てましょう」と言っていますので、そこから推測するとその様になるのです。

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イエス、死と復活を予告する

聖書箇所は、マルコの福音書第8章31節から第9章1節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書16章21節から23節とルカの福音書9章22節から27節 です。

の福音書第8章
●31節.それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。

イエスはガリラヤでの伝道を終え、これからいよいよイスラエルへ最後の旅に向かわれます。

イエスは弟子たちといられる時間がもう残り少なくなってきました。

この時から、イエスはご自分に関する秘密を弟子たちに教えられ始めました。その内容はこの31節の、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され、三日の後に復活することになっている」でしょう。

この「人の子」というのは、イエスご自身を指しメシアの称号だと思います。イエスは一貫してこの呼び方を用いておられます。

なお、イエスがご自分のことをこのように呼ばれるときを調べてみると、イエスが発言される中だけに用いられていて、他の人がこの名でイエスに呼びかけたり、イエスについて語ったりすることはなかったと言うことです。

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