フォト
2026年2月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

カテゴリー

« 「種を蒔く人」のたとえの説明(マルコ4章) | トップページ | たとえを用いて話す理由(マルコ4章) »

2018年2月 5日 (月)

「種をまく人」のたとえ(マルコ4章)

聖書箇所は、マルコの福音書第4章1節から9節 です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第13章1節から9節 、ルカの福音書第5章1節から3節/同8章4節から8節です。

マルコの福音書に沿って読んでみたいと思います。
●1節.イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。

再びおびただしい群集がイエスの周りに集まってきました。

状況からみて群衆がイエスに近づこうとするのは、イエスの体に触ることによって病気をいやしていただくためであると思います。

イエスは、準備していた小舟に乗っておられるので触ることはできません。

こうして、イエスが舟に乗られたのは群衆にもまれることを避けるためでもあるでしょうが、群衆から少し離れて話しかけた方が全体によく聞こえるのは確かです。

そして、イエスの体に触れることよりもイエスの言葉に注視させる効果があります。

イエスは言っておられます。
「聞く耳のある者は聞きなさい」(9節)と。信仰は、み言葉を聞いたり読むことによって育まれるものだと思います。

だから、キリスト教は言葉の宗教とも言います。

●2節.イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。

たとえは何かを理解させよようとしてもなかなか理解させることができない場合に用いると非常に有効な手段です。

たとえには、わたしたちの身近なこと、日常よく知っていることを持ちいますからイメージしやすく分かりやすいのですね。

イエスが神の国のことを語られる時は、ほとんどがたとえを用いて語られています。

神の国は異次元の世界です。ですから、わたしたちの知識とか知恵ではとうてい理解できないことが多いでしょう。

そういう「神の国」という霊の世界を語るには、たとえを用いるのが最適だと思います。

もちろん、たとえから来るイメージは、人それぞれの体験から産まれると思いますが、幅が広く柔軟性があるので、聖霊が働きやすいと言えます

●3節.「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

●4節.蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

●5節.ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。

●6節.しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

●7節.ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

ここ3節から8節は「種をまく人」のたとえの中心です。

種を蒔くのは農夫ですが、それでは、種をまく農夫は「神の国」の姿とどのように対応しているのでしょうか。

いつものようにイエスの時代のパレスチナでの種蒔きの様子を調べてみますと、それは今と比べると非常に荒っぽいもので、稲を刈った後まだ耕されていない土地に種を散布するということですから、種をまき散らすように撒き、その後で全体を耕すそうです。

ですから、悪い場所に落ちて失われる種も非常に多いということです。

でも、収穫の時が来ると、その畑全体が豊かな実を実らせる。

ここのたとえは、いろんな人の解説書をみると、種が落ちた土地の種類によって収穫が違うと言うことを前提に話をされている方が多いと思いますが、このような農業をしている人たちがこのたとえを聞いた時、はたして種が落ちた土地の種類によって収穫が違ってくるというような理解はしたでしょうか、疑問です。

耕さずに種をまいたのですから、種が落ちた土地の種類など考えずに種を蒔いたのです。無駄になる種があるのは織り込み済みで、その上で収穫の多寡のみを考えていたのではないでしょうか。

種蒔きの時には失われるものが多いが、畑は全体としては時が来れば必ず豊かな収穫をもたらすものだと信じていたと思うのです。

ここのたとえでは、まず悪い土地を具体的に三つ例を挙げて、いずれも、実を結ばなかったことを語られました。
実を結ばない悪い土地がどのような土地かを調べてみますと、

まず「道端」は、人が踏み固めて固くなった土地のことです。

「石地」は、畑の中にも石が転がっていたので石が窪んでいるところに土が薄く入っており、そこに種が落ちることでしょう。

「茨の中」とは、いばらの中の土は、良い土と同じように柔らかで良好な土ではあるが、同時に雑草が生い茂っている土地ということでしょう(4~7節)。

●8節.また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」

ここでは、悪い土地(道端、石地、茨の中)とは対照的な良い土地におちた種のことを語られます。

よい土地に落ちた種は、農夫に豊かな収穫をもたらす。

その豊かさを三十倍、六十倍、百倍とますます大きくなる数字をあげられました(8節)。

先に書きましたが、この収穫はもちろん畑全体としての収穫だと思います。

無益に見える種蒔きの状況と豊かな収穫が対照されています。

農夫は豊かな収穫を望み信じて種をまきます。

その蒔き方がどれだけ成長しない無駄な種を生み、非効率であっても、ひるむことなく種をまくもです。

この姿は、伝道の姿と同じです。人間がやるのですから、そのようなものでしょう。

それに、この世はサタンが支配している、神様を認めない人が支配する混沌の世界です。その中にみ言葉という種を蒔くのですから、無駄になる種が多く出るのは当たり前です。困難が伴うのも当たり前です。

このたとえは、神の国のたとえですから、イエスはそのことを言いたかったのでしょう。

種まきは無駄も多いが収穫を期待して種を蒔くのです。

その種が神の言葉であれば、無駄が多いように見えても時が来れば必ず豊かな収穫で報われる(イエスの言葉を信じる人が増える)ということでしょう。

種まきは徒労になることも多いが、それがため収穫があった時の喜びには大きなものがあります。

●9節.そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

「聞く耳のある者は聞きなさい」とイエスは言われました。

8節までの「種まきのたとえ」の話から、「神の国」の何を聞きとるかでしょう。イエスはたとえ話を語って、それ以上のことは何も言わずに「聞く耳のある者は聞きなさい」と言う言葉で締めくくっておられます。

聞く耳がある者は聞きなさいということは、たとえをどのように理解するかは、わたしたち一人一人に委ねられたということでしょう。

「聞く耳」のある者は、自分の身に置き換えて、身近なこの種まきの苦労と収穫の話で、苦労したが多くの収穫を得られた時の喜びの体験を思い出します。

あるいは、その収穫に至るまでの、つまり、種が木に成長する力の源は何か、その神秘に神を見て、そこに「神の国」の奥義を発見して歓喜したと思います。

しかし「聞く耳」のない者には、このたとえが「神の国」のことどころか、何を言っているのかわからないのでしょう。

「聞く耳」とは何であろうか。それは、頑なな心を開いて、イエスの言葉を信じ、理解しょうとすることではなかろうか。

もちろん、理解させて下さるのは、聖霊ですから、理解する為には、わたしたちはそのイエスの霊と同じ霊をわたしたちの内に住まわれることが必要かと思います。

また、ここでは「刈り入れ」とか「収穫」という言葉が出てきませんが、種をまいて実がなれば当然収穫、あるいは刈り入れとなります。

その言葉は、聖書では終末における救いの時であると同時に厳しい裁きの時になるのでしょう。わたくし流に語れば清めの時と言うことになります。

救いに与る者は喜びに満ちた栄光で復活の時でもあります。

イエスはこのたとえで「神の国」がどのようにして到来するかを語っておられると思うのです。

すなわち、神はこの地上に神の言葉をまかれた。

その種(み言葉)は人間の不信や頑なさの中で失われてしまって無駄であるように思えても、それが神の種子である以上、時が来れば必ず豊かに実るのです。

それはあたかも種が成長して木になるように神の種は必ず成長して実るのです。それは神秘です。言い換えれば、創造の力、命の創造の神秘です。

« 「種を蒔く人」のたとえの説明(マルコ4章) | トップページ | たとえを用いて話す理由(マルコ4章) »

共観福音書を読む」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「種をまく人」のたとえ(マルコ4章):

« 「種を蒔く人」のたとえの説明(マルコ4章) | トップページ | たとえを用いて話す理由(マルコ4章) »

無料ブログはココログ

最近のトラックバック