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2018年2月15日 (木)

湖の上を歩く(マルコ6章)

聖書箇所は、マルコの福音書第6章45から52節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書14章22から33節です。

マタイの福音書とマルコの福音書は大体同じです。

違うところは、マタイの福音書はマルコの福音書にはない記事を書き加えています。それはマタイの福音書第14章28節から33節のペトロの体験談です。

ペトロがイエスの命令に従って水の上を歩き、途中で怖くなって沈みかけ、イエスによって助けられるという記事です。

●45節.それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。

イエスは五千人への供食の奇跡をなさったのち、疲れたので弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせました。

「強いて」ということは弟子たちが反対、あるいは嫌がっているのにということでしょうから、きっと、弟子たちは、イエスを群衆の中に一人残して自分たちは先に舟で向こう岸に渡るなどとてもできる相談ではなかったでしょう。

それに、弟子たちが舟を使えばあとからイエスが向こう岸に渡るときにはどのようにするのかという問題もあります。

イエスは、舟で向こう岸に渡ることを渋る弟子たちを「強いて」舟にのせたのです。

でも、弟子たちが心配することもなく、群衆はイエスの言葉に従って解散しました。

必要な人はほとんど癒されたのでしょう。

解散させられた理由をあえてもう一つ上げるならば、群衆の中でイエスをメシヤ(イスラエルの救い主)に担ぎあげようとする政治的な運動が強くなったから解散させられたのではないかと推測できます。

では、なぜイエスだけ残られたのでしょうか、それは46節以下の弟子たちから離れて山に登り、一人で祈るためでした。

ご自分の時間、いやご自分と父なる神の時間を持とうとされたのです。

●46節.群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。

イエスは、疲れたので休息を得るために、あるいは下記のような理由があったのかも知れませんが、一人になり祈られます。

祈りは、父なる神と交わり、新たな力を得るために必要なことであったのでしょう。

45節と46節のイエスの態度には、何か強い意志が見られます。

それはおそらく、群衆と弟子たちがイエスに期待することと、イエスが弟子たちに伝えようとすることが、違っていることが明らかになったので、イエスは心を痛めて自ら離れ去っていかれたのだと思うのです。

その現実が、この後のイエスの神との交わり、長い祈りになったのだと思うのです。

●47節.夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。

弟子たちは舟に乗って先に向こう岸に渡ろうとしています。

しかし、舟は湖の真中にあるときに、イエスはまだ陸地におられました。

弟子たちが乗りこんだ舟(小舟)は夕方には湖の真ん中まで来ていましたが、逆風のために漕ぎ手は大変だったでしょう。

調べてみると、この湖は、普通気象条件が悪くても6時間から8時間で渡れるということですから、明け方(午前6時ころでしょうか)になってもまだ湖の上にいたということは、やはり弟子たちはイエスを残してきたことが気になって湖上で、イエスの様子を見ていたのでしょう。いつでも戻れるようにと待っていたのかもしれません。

●48節.ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。

驚いたことに、イエスは湖上を歩いて弟子たちが乗る舟まで来られたのです。

「夜が明けるころ、」ですから、イエスは夜明けまで祈っておられたのです。

湖上で弟子たちは、山から来る強い風に邪魔されて思うように舟をこぐことはできませんでした。

ガリラヤ湖は、山に囲まれており、吹き下ろす風が強いということです。

●49節.弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。

月が出ていれば湖上は明るく、ガリラヤ湖に浮かんでいる舟は、陸からはっきりと見ることができますが、このときはどうでしたでしょうか、何も書いていません。

ただ明け方でも早い時間帯でしたら、湖上は暗かったでしょう。

弟子たちは、その暗闇の中に水の上を歩いて近づいてくる人影を認めて、幽霊を見ていると思い、恐れのあまり大声を出して叫んだのだと思います。

確かに夜の暗闇は人の心をおびえさせます。星明かりもない真っ暗な湖上で、風と波で舟はもまれて沈みそうになっています。

その恐怖の中でありえないこと、つまり、湖上に人影を見たのです。

弟子たちはさぞ恐ろしかったと思います。

それも、彼らはこともあろうに自分たちの師であるイエスを幽霊だと思ったのです。しかし、イエスは湖上を歩くご自分の姿を弟子たちに見せて何を語ろうとされているのでしょうか。

●50節.皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

この「わたしだ」の一言で、弟子たちはその人影がイエスであることが分かったのです。

この、「わたしだ」というイエスの言葉は、エゴー・エイミー「わたしはある」というギリシア語で、英語の I AM に当たるそうです。

本来旧約聖書では神の自己啓示の呼称(出エジプト記第3章14節から15節)だということです。

イエスはこのような言葉を使って自己を啓示されたのです。

はっきりと、御自分は神であるといわれているのです。これほど力強い言葉はありません。

その言葉に対し、ペトロはイエスに「主よ」と呼びかけますが、それは、イエスが自分の支配者であると認めていることになります。

これは明らかにペトロのイエスを主と告白する信仰告白です。

弟子たちは、人影が幽霊ではないイエスだと気づいた瞬間、未知の人影に対する恐怖心は吹き飛び、心が平安になりました。

暗闇の中ですから、弟子たちはまだイエスの姿をしっかりと認めてはいなかったでしょうが、おそらく「わたしだ・・」といわれたイエスの威厳ある声と言葉で、イエスを認め安心したのでしょう。イエスの言葉にはそれほど権威があるということです。

安心した瞬間、調子のよいペトロはすぐにつぎのようにイエスにねだります。

「すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」( マタイに福音書第14章28節.)。

ペトロがイエスのように湖の上を歩いてみたいと思ったのは、子供のような冒険心がそうさせたのでしょうか。

「あなたでしたら」と言っていますから、ペトロはイエスの権威にまだ少し不安があったのかもしれません。実に描写が細かいです。

マタイの福音書は、この時のペトロの気持ちについては、何も語っていません。

そのペトロの言葉に「イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。」(マタイの福音書第14章29節) 「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 」(同30節).「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 」(同31節)と続いています。

こうしてみると、このペトロの姿はまさに復活者イエスを信じて現世を歩むエクレシア(キリスト者の共同体)の姿であり、またクリスチャン一人ひとりの姿だと思います。

ここのペトロの言行でわたしが思うことは、救われるためには、信仰も行いもどちらも必要だということです。

信仰が先で行いが後、信仰があれば行いはいらないではないと思うのです。

そして、イエスは人間の弱さをよくご存じですから、そこに至った理由はどうであれ、助けを求めればすぐに助けてくださる方だということです。

わたしたちは、未知に出会えば心は恐れと不安におののきます。

それが人間です。このような言葉があります。「怖れと信仰は水と油。怖れのあるところには信仰はなく、信仰のあるところには怖れはない」。

その時にできることは、だだ「主よ、助けてください」と叫んで、イエスの言葉にすがるだけです。

でも、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱責されるのが目に見えます。

●51節.イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。

●52節.パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

弟子たちは気がつくと、イエスはすでに舟に乗っておられて、風も静まっていました。

弟子たちはこの体験にただ呆然とするばかりでありました。

一体何が起こっているのであろうか。マルコはただ起こったことをそのまま伝えているだけでしょう。

この物語の締めくくり方ですが、マタイの福音書とマルコの福音書で比べてみますと、マタイはこの湖上の顕現の物語を、14章33節で「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」という文を置き締めくくっています。

これはマルコの福音書6章52節の締めくくりの言葉「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」と大きく違います。

言えることは、マタイの福音書では弟子たちはイエスを神の子と認識していたということで、マルコの福音書では弟子たちはイエスのことをまだよく理解していなかったということではないでしょうか。

弟子たちはこの事態にただ驚くばかりで、イエスのなされた奇跡の意味を、つまり奥義を理解するどころではなかったのではないでしょうか。

「この心が鈍くなっていた、」というのもよくわかります。

弟子たちがイエスの奇跡に何度も接し、驚いたり感心したりする間に、いつの間にか慣れてしまって心が鈍くなったということでしょう。

信仰生活に慣れてくるにしたがって、聖書を読んでいても心が鈍くなり、一言一言の言葉の意味をおろそかにするようになります。信仰にとってマンネリ化は大敵です。

なお、マタイの福音書14章27節にもマルコの福音書と同じように、「わたしだ」というイエスの言葉、すなわち、エゴー・エイミーという神の自己啓示の呼称が置かれています。

それから、この個所について次ぎのような見方もありますので、紹介しておきます。

水の上を歩いて来られるイエスの記事は、イエスが十字架で死なれた後、復活されガリラヤの漁師の仕事に戻っていた弟子たちに顕現された出来事を、生前の物語として重ねたものであるという見方です。

マタイの福音書には、イエスの復活の事実だけで、後の顕現の記事は書かれていません。マタイの福音書はイエスの復活後の顕現をこのように生前のイエスの活動の中に置いているということですね。

マタイとマルコの記事の違いは、そこから来ているのかもしれません。

マルコの福音書には復活後の記事はありますが、「結び」以降の記事は、後から継ぎ足したのではと言われています。

つまり、両福音書ともイエスの出来事を時系列で書いているのではなく、イエスの復活後の出来事を福音書全体で証していると言うことです。

福音書は歴史書ではないし、なされたことの記録でもないのでそれもありかなと思います。

福音書はイエスがどのような方かを語っているのですからね。

●53節「一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて船をつないだ」、

ゲネサレは湖に隣接して広がるティベリアス北方、カペナウム西方の肥沃な地域であって、ガリラヤ湖はこの地域の名によって「ゲネサレ湖」とも呼ばれていたと言うことです。

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