悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす(2)(マルコ5章)
聖書箇所は、マルコの福音書第5章1から20節で、今回は二回目で、13節から読みます。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第8章28から34節/ルカの福音書第8章26から39節です。
汚れた霊どもがイエスに願ったのは、苦しめないでください、この地方から追い出さないでください、豚に乗り移させてくださいの三つでした。
そこで、イエスは、汚れた霊どもの願いを聞かれます。
人格(霊格?)ある存在は自分の意志を持っていますから、選択権を与えられると言うことでしょう。
●13節.「イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。」
豚二千匹が一斉に崖を下ったのです。すごい光景でしょう。
イエスは、悪霊どもの願いを聞き入れて、豚に乗り移るのを許されました。
悪霊はやはり体がほしかったのです。
悪霊ども(汚れた霊ども)が乗り移った豚は、びっくりして狂ったように水に飛び込みおぼれ死んでしまいました。
ここでわかることは、この世界は悪魔を含むすべての被造物は神の支配下にあるということです。
汚れた霊どもにはイエスと戦う意志も力もありません。
ただ懇願して願い事を聞いてくださるように頼むだけです。わたしたちと同じです。
7節で悪霊は、イエスが神の子であると認めています。
一応は抵抗しますが、「出て行け」とイエスが命令すると、乗り移った人間を痙攣させると言う最後の抵抗を試みますが従いました。
そして、霊にも人格があると言うことです。
人格がるから意志もあります。
イエスは、人格があり、意志があるものを、ロボットのように扱わず、人格のある者には必ず自由に選択する権利を与えておられます。
それが神のわたしたちに対する対応の大原則です。
神はあくまでわたしたちの自由意思を尊重されるのです。決してロボットのように扱われないということです。
●14節.「豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。」
●15節.「彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。」
豚飼いたちは、汚れた霊どもから解放された人を見て喜ぶのではなく、恐ろしくなりました。
彼らは、汚れた霊に憑かれた男が夜昼墓場で叫び続け、石に体を打ちつけてからだを傷つけていたことを知っていたのです。
その男が、今は正気になったのですから、その変貌ぶりにさぞ驚いたことでしょう。
恐ろしくなったと言うのは、おそらく、イエスが汚れた霊どもを支配されている、尋常でない未知の力を目の前に見せつけられて、畏怖心を抱いたのでしょう。
●16節.「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。」
今まで体験したことがない、信じられないことが目の前で起こったのです。
豚が川に飛び込んで死んでしまったので、自分たちのビジネスが壊滅的打撃を受けたのも衝撃でしょうが、豚飼いたちは、未知の力を示されたイエスには攻撃する気力もうせて、畏怖と言うか恐ろしさが先に立ったのでしょう。
人は経験上あり得ないこと、未知の恐ろしい出来事などに遭遇した場合、畏怖に囚われて恐怖心でその場から逃れたくなります。
この出来事を目にした人々によって、その恐ろしい事態は語り継がれてうわさが広がります。
●17節.「そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。」
目撃した人々は、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語りました。
人々は、関わりたくない一心でイエスにその土地から出て行くように求めたのでしょう。
人々に出て行けと言われてイエスは、彼らの意志に反してそこにとどまろうとはされませんでした。
イエスは彼らの自由な選択を尊重されそこを出て行こうとされます。
彼らは、イエスのうちに到来している神の支配の現実を理解できなかったのでしよう。
わたしもその場にいたとしたら、同じようにしていたと思います。
●18節.「イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。」
それで、 「イエスは舟に乗ろうとされ」ると、汚れた霊どもから解放された人がイエスと一緒に行きたいと願っています。
このゲラサ人は、イエスに到来している神の支配の現実を、身を持って体験しました。
神の憐みに触れたゲラサ人は、心が燃え、感動しイエスについて行くことを願いました。実体験したのですから、これほど確かなことはありません。
●19節.「イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」」
ゲラサ人はイエスの弟子になりたかったのでしょうか。
イエスはそのゲラサ人に対し、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われました。
こうして、社会から隔離され、社会とまったく交わりのなかったこのゲラサ人が、家族や村の共同体の一員として受け入れられ、社会との交わりが回復されることになります。
そばで見ていた人たちは、その証人となります。
ゲラサ人はお供をしたいと願いますが、イエスは拒まれています。
なぜでしょうか。
それは、弟子としてイエスについて行くことも大切ですが、家に帰って癒されたことを喜びながら、体験を語りながら、祝福された人生を送ることも大切だと言っておられると思うのです。
ゲラサ人は、力強い神の支配の証人となったことは、次の章6章53節以降を読めば納得できます。
●20節.その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
ここでは、イエスはご自分がなさったことを誰にも話さないようにとは言われませんでした。
この出来事を体験したゲラサ人はもちろん、それを目撃した人々もイエスに来ている神の支配の証人となりました。
同時にそれは、ゲレサ人の社会復帰のための証人でもありました。
イエスは、ゲラサ人から大勢の汚れた霊を追い出されることによって、ご自分が霊界の支配者であり、キリストであることを示されたのです。
なお、悪霊の存在について、問題にする人もいますが、毎日ように起こる悲劇的な出来事の中には、悪霊の働きと思わなければ理解できない猟奇的な事件もあります。
一概に否定できないと思います。
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