5000人に食べ物を与える(マルコ6章)
聖書箇所は、マルコの福音書第6章32節から44節 /マタイの福音書第14章13節から21節/ルカに福音書第9章10節から17節です。
マルコの福音書第6章
●32節.そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
●33節.ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
●34節.イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
●35節.そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
●36節.人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
●37節.これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
●38節.イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
●39節.そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
●40節.人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
●41節.イエスは5つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
●42節.すべての人が食べて満腹した。
●43節.そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の篭にいっぱいになった。
●44節.パンを食べた人は男が五千人であった。
マタイの福音書とルカの福音書の並行箇所の聖句記載は省略します。
わたしにはこの5000人に食べ物を与える奇跡物語が福音書になぜ採用されたのかもう一つ分からないのです。
ただ、イエスがこのような奇跡を起こされましたと言うだけの理由なのでしょうか。
なにしろ、共観福音書三つ全部に書かれているのですから、福音書を著すに際し、省くことが出来ない相当重要な物語のはずです。
イエスは、5つのパンと2匹の魚で5000人が満腹するほどの食事を与えらました。
それにイエスは、この奇跡をおこなうのに、誰からも頼まれないのに、求められもしないのに自ら言いだしておられます。
だから、いわゆる賜物の奇跡と言えます。
この奇跡は事実あったことをそのまま書かれただけなのでしょうか。
この奇跡をなされたのは、お腹をすかしている群衆に食べ物を与えるだけであったのでしょうか。
群衆はイエスに必死で空腹を訴えていませんし、それに、イエスは群衆に食べ物を与えるに際し、何も語りかけておられません。
それに、これだけ大きな奇跡なのに 弟子たちもそのほかのだれも驚いたり喜んだりした様子が描かれていないのです。
淡々と当たり前のように書かれているのです。これは何を意味するのでしょうか。
はたしてこれは荒唐無稽な作り話でしょうか。
それにしても、5000人の前で奇跡を行われたのです。
作り話ならば、その5000人の内の何人かはこれらの福音書が書かれた時にはまだ生きていたはずですから、すぐに嘘だと分かるはずです。
そうであれば、異論がでて聖書には残らなかったと思うし、たとえ残してもそのような聖書を誰も信用しません。
それに、作文ならさも事実らしくもっと詳しく書くはずです。
このように出来事だけを書きません。
それでは、三人の聖書記者が申し合わせて嘘の物語を書くでしょうか。
三つの福音書は、それぞれ出来た時代も場所も違いますので、打ち合わせなどできるはずがありません。
聖書記者は、イエスの言葉に命をかけて信じた信仰者です。
人は、自分の作文のために命を賭けません。
福音書はイエスが無くなってから記憶も薄れる20年以上たって書かれていますし、イエスの伝記を書いたものでもないとすると、イエスが生前に実際行われたことを、復活されたイエスの御霊が福音書著者に働き、思い出させて書かせたのでしょうか。
そうであるならば、この物語で何かを伝えるためとか教えるために書かれたと言えます。
聖書記者の体験に裏付けられた信仰告白といえます。
だから何かを訴えようとして書かれているはずです。
この物語は、事実無根ではなく、一部の真実(イエスの語られたこととか実際に行われたことで)があってそれが基になりこのような物語になったという見方もあります。
もちろん、それらもキリスト教ですから、イエスの御霊、聖霊の働きがあっての話です。
ただ言えることは、福音書の記者は信仰者ですから、福音書は記者の宗教体験に基づき、信仰により確信を持って書かれているということです。
もし、この奇跡物語が作り話なら、供食は手段で、目的は、教えの内容を説明する為でなければなりませんが、いろいろと教えられたとあるだけで、その内容は何も書かれていません。
並行箇所のルカ9章17節には、「すべての人が食べて満腹した。パン屑と魚の残りを集めると、十二の篭にいっぱいになった」と明白な事実が書いてある、つまり、群衆が実際に食物を食べたことを確認していますから食物を供食したという出来事以外に他の解釈は考えられません。
何度も書きますが、著者は、復活のイエスを体験した信仰者です。
生涯をかけて、命をかけてイエスを信じている信仰者です。
命をかけて信仰する教祖をかたって物語を造るようなことをできるわけがありません。
あとでそれが嘘だとばれればだれもそのような福音書を信じません。信仰者にとっても致命傷となるでしょう。
結論として、作り話なら著者は何かの目的があって書くものです。
ところが、著者の意図は何も書かれていません。
ただ事実だけを淡々と述べているという感じです。
ということは、やはりイエス御自身が生前に実際に行われた奇跡であって聖霊が聖書著者に書かせたと言えるのではないでしょうか。
この奇跡は、人間の力を完全に超越した神からの恵みと考えます。
恵みならば、「食物はともに分けて食べればみんなが満足するが、取り合いになれば食物は不足する」ということです。
でも、それだけでしょうか?
実は、この5000人への食べ物の奇跡は、ある種の革命運動ではなかったか?という解釈があります。
男だけとあるのや、人々の行動や、組み分けの組織を見るとこれは当時の軍隊の組織に似ているからです。
イエスを担ぎ出して政治的な革命運動へつなげようとする動きがあったと言うことです。
ただし、このような軍事的革命的な解釈は、マルコの福音書にしか書かれていませんが、その描写が、「百人、五十人ずつまとまって腰を下ろさせる」というように具体的なので、そのような見方が出てきたのでしょうが、並行箇所のマタイの福音書第14章21節に「食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。」とありますから、軍隊組織であれば女子供が入るのはおかしいので、そういう見方は間違いではと思います。
ヨハネの福音書には、この奇跡の後で、「人々がイエスを王にしようとするために連れていこうとした、イエスはこれを知ってひとりでまた山に退かれました」(ヨハネの福音書第6章15節)とあります。
したがって、イエスをリーダーにして革命を起こそうとした人たちに対して、イエスがパンを与えてこれを鎮めようとしてパンの奇跡を起こされたと見ることもできます。
なんとなく、この奇跡をなされた意味が見えてきました。
イエスが熱心に神の道を教えておられるうちに、日も暮れて、群衆は空腹のためにいらいらしていたのかもしれません。
革命を期待している群衆が過激に走るかもしれません。早くからその様な殺気があったのでしょう。
イエスも感じていたので、群衆の意向に沿っていると見せかけるために百人とか五十人に分けて座らせたのでしょう。
その上で、群衆に食物を与えたので何とか治まりましたが、それでもまだイエスを担いで革命運動を起こそうとしたのでイエスは山に逃げられた、と推測します。
革命運動を期待した群衆の集まりであったという解釈を補足するものとして、マルコ6章39節他に「青草の上に」座ったという記述がありますから、この出来事が起こったのは春だと言うことが分かります。
調べてみると、これは十字架の過越の前の年の春だと言うことです。
当時のユダヤ教の信仰では、メシヤ(救い主)は過越の祝祭の時に来て、イスラエル王国を再建すると期待していました。
民衆が期待していたメシヤは、神から油を注がれ(聖別された)任じられた王であって、イスラエルを異教徒の支配から解放してイスラエルが歴史上もっとも国家として繁栄していたダビデ王国時代のような国家を再建する政治的指導者として期待していました。
そのような指導者をイエスに期待したと言うことです。
ヨハネの福音書第6章60節から65節に、おそらくイエスを担いでの革命を期待していたであろう十二使徒以外の多くの弟子たちが、イエスの教えの霊的な意味を理解できずに、イエスの教えが自分たちの思惑と違っているのを知って失望して去っていく個所があります。
その時から事態は一変して、イエスは十字架に向けてまっしぐらに歩んで行かれました。
そのような出来事があったことは、上記の解釈を補足するものになるのではないでしょうか。
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